(このブログは「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の公式解説ブログの一部です)
成長の将来予測
経済などの長期間にわたる将来予測を行なうためには、食糧の増加率や資源消費量などの多くの要因に関する関係を計算に入れる必要がある。しかしこれらの総合的な関係は、先に述べたように直観的に理解することができないほど複雑な構造をもっている。将来予測を行うためには、多くの要因の相互に関連した複雑な関係を正確に捉えなければならない。このようなものを正確に分析・理解して将来を予測しようとすると、関係性を定式化して、それらを統合した全世界的なベースで計算する手法、つまりグローバルな数値モデルが必要となる。
要因間の関係性は、要因が増えると飛躍的に増加する。これらを直観的に理解することは不可能に近い。
ここでは「成長の限界」による予測結果を詳細に解説することはしない。その将来予測の分析結果に興味がある方は「成長の限界」の本を見てもらいたい。「成長の限界」が導き出した結論の一つは、「現在のシステムにこのまま大きな変革がないと仮定すれば、人口と工業の成長は遅くとも次の世紀内(つまり21世紀)に確実に停止するだろう」ということである。「成長の限界」は次のように結論している。
世界モデルの計算では、自由に「行きつくところまで」成長させるべきであるという最初の仮定をとるかぎり、破局的な行動様式を回避する一組の政策を見つけ出すことは不可能であった。
この本では、「行動様式」とは、時間の進行とともに変化する傾向を意味している。今までいろいろと試してきた世界システムの基本的な行動様式では、このままでは人口および資本の幾何級数的成長によって、成長は破綻すると予測されている。
「成長の限界」では、エネルギー問題については原子力エネルギーを使って当面は解決できる、としている(ただし核の廃棄物を汚染として重視している)。ここではその是非については置いておくが、「成長の限界」では、
エネルギー問題の解決による「無限」のエネルギー資源は、汚染の問題によって世界システムの成長を支える鍵とはならないように思われる。
と結論している。この汚染は、「成長の限界」では当時の公害などを指しているが、現在では地球環境問題のようなもっと広域の課題も含まれると捉えることが可能と思われる。
技術革新と「成長の限界」
人類の近代の歴史は、生起した問題による限界を技術革新によって克服してきた。そして多くの人々は、引き続き技術革新によって自然が持つ限界を無限に克服し続けることができる、と期待を抱いている。しかし、「成長の限界」では、そうはならないと結論している。そして、その理由として次の2つを挙げている。
l 複雑なシステムにおける急速な幾何級数的成長
l 対応のための時間の遅れ(原因と結果との間に起こる遅れ、人間が原因を認識するまでの遅れ、対策が効果を上げるための遅れ)
「対応のための時間の遅れ」とは、例えば車の運転の場合、人間が危険を認識すれば回避するためのブレーキを踏むが、その動作と応答(自動車が実際に止まるまで)との間にはどうしても時間の遅れが存在する。そして、仮に技術的な対策が可能だとしても、幾何級数的成長のようにシステム自体が急激な変化をとげている場合(例えば高速で走行している車の場合)は、この対策にかかる時間遅れによって、手遅れになることがあり得ることを示している。しかもこの対応は、技術的なものだけでなく第二のカテゴリーである社会的(政治的、倫理的、文化的)な対応も必要となる。しかし、その対応はこれまで速やかに行なわれたことがほとんどないとしている。
地球温暖化問題で言うと、「適応策」(温暖化した世界の中で暮らしていく技術)も技術革新の中に入るかもしれない。ある程度の地球温暖化は既に避けられないとされている以上、技術的な革新による適応策は必要である。しかし、それで地球温暖化問題が全て克服される(つまり温暖化する前のような暮らしに戻れる)わけではないことも、心に留めておかなければならない。
「成長の限界」の結論
経済成長の一部は、資本ストックとなって資本を増加させ、それは投資を増加させる。その結果、増えた資本ストックは、ますます多くの生産物を生み出すことになる。これが最初に述べた正のフィードバック・ループである。
成長を妨げようとする圧力に対して、従来は技術を適用することによってそれを解決することに成功してきた。これは、文化全体が限界に従って生存することを学ぶよりも、むしろ限界と戦うという原則をもって進歩してきたことを意味する。しかし、成長の過程のどこかで、使用可能な天然資源の大部分が底をついてしまう。あるは汚染の問題が負のフィードバック・ループを形成するようになる。「成長の限界」は、このような問題については技術の発達でなんとかなる、という考えを「技術的楽観主義」と呼んでいる。
そして「成長の限界」は、問題を克服するために「技術的楽観主義」に陥ることを戒めている。技術革新は問題の兆候を除去することはできるが、本質的な原因に作用することはできないとしている。
「成長の限界」における主要な分析を述べてきた。同書で重点がおかれているのは、このモデルによる結果が世界に関して我々に何を告げているかである。そして序論(要約)の中で次のように結論している。
(1)世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来たるべき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は、人口と工業力のかなり突然の、制御不可能な減少であろう。
そして、同じく序論の中で、次のように述べている。
(2)こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は、地球上のすべての人の基本的な物質的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。
つまり「成長の限界」は、破局的な行動様式を回避するには、経済成長より持続可能な社会均衡を重要視している。その上で「その達成するために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう。」とも述べている。どうだろう、この50年以上前の結論は現在から見て古くさい荒唐無稽なものだろうか?
「気候変動社会の技術史」の中でも述べられているように、地球温暖化は、温室効果ガスによる環境汚染の一部という考え方がある。持続可能な社会という視点で見ると、地球温暖化のような地球環境問題は、「成長の限界」で議論されているように、成長に臨界点をもたらす汚染の一つと捉えることが出来るだろう。