2025/09/02

「成長の限界」(2) 成長の将来予測と結論

(このブログは「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の公式解説ブログの一部です)


 成長の将来予測

経済などの長期間にわたる将来予測を行なうためには、食糧の増加率や資源消費量などの多くの要因に関する関係を計算に入れる必要がある。しかしこれらの総合的な関係は、先に述べたように直観的に理解することができないほど複雑な構造をもっている。将来予測を行うためには、多くの要因の相互に関連した複雑な関係を正確に捉えなければならない。このようなものを正確に分析・理解して将来を予測しようとすると、関係性を定式化して、それらを統合した全世界的なベースで計算する手法、つまりグローバルな数値モデルが必要となる。

 

要因間の関係性は、要因が増えると飛躍的に増加する。これらを直観的に理解することは不可能に近い。

ここでは「成長の限界」による予測結果を詳細に解説することはしない。その将来予測の分析結果に興味がある方は「成長の限界」の本を見てもらいたい。「成長の限界」が導き出した結論の一つは、「現在のシステムにこのまま大きな変革がないと仮定すれば、人口と工業の成長は遅くとも次の世紀内(つまり21世紀)に確実に停止するだろう」ということである。「成長の限界」は次のように結論している。

世界モデルの計算では、自由に「行きつくところまで」成長させるべきであるという最初の仮定をとるかぎり、破局的な行動様式を回避する一組の政策を見つけ出すことは不可能であった。

この本では、「行動様式」とは、時間の進行とともに変化する傾向を意味している。今までいろいろと試してきた世界システムの基本的な行動様式では、このままでは人口および資本の幾何級数的成長によって、成長は破綻すると予測されている。

「成長の限界」では、エネルギー問題については原子力エネルギーを使って当面は解決できる、としている(ただし核の廃棄物を汚染として重視している)。ここではその是非については置いておくが、「成長の限界」では、

エネルギー問題の解決による「無限」のエネルギー資源は、汚染の問題によって世界システムの成長を支える鍵とはならないように思われる。

と結論している。この汚染は、「成長の限界」では当時の公害などを指しているが、現在では地球環境問題のようなもっと広域の課題も含まれると捉えることが可能と思われる。

技術革新と「成長の限界」

人類の近代の歴史は、生起した問題による限界を技術革新によって克服してきた。そして多くの人々は、引き続き技術革新によって自然が持つ限界を無限に克服し続けることができる、と期待を抱いている。しかし、「成長の限界」では、そうはならないと結論している。そして、その理由として次の2つを挙げている。

l  複雑なシステムにおける急速な幾何級数的成長

l  対応のための時間の遅れ(原因と結果との間に起こる遅れ、人間が原因を認識するまでの遅れ、対策が効果を上げるための遅れ)

「対応のための時間の遅れ」とは、例えば車の運転の場合、人間が危険を認識すれば回避するためのブレーキを踏むが、その動作と応答(自動車が実際に止まるまで)との間にはどうしても時間の遅れが存在する。そして、仮に技術的な対策が可能だとしても、幾何級数的成長のようにシステム自体が急激な変化をとげている場合(例えば高速で走行している車の場合)は、この対策にかかる時間遅れによって、手遅れになることがあり得ることを示している。しかもこの対応は、技術的なものだけでなく第二のカテゴリーである社会的(政治的、倫理的、文化的)な対応も必要となる。しかし、その対応はこれまで速やかに行なわれたことがほとんどないとしている。

地球温暖化問題で言うと、「適応策」(温暖化した世界の中で暮らしていく技術)も技術革新の中に入るかもしれない。ある程度の地球温暖化は既に避けられないとされている以上、技術的な革新による適応策は必要である。しかし、それで地球温暖化問題が全て克服される(つまり温暖化する前のような暮らしに戻れる)わけではないことも、心に留めておかなければならない。

「成長の限界」の結論

経済成長の一部は、資本ストックとなって資本を増加させ、それは投資を増加させる。その結果、増えた資本ストックは、ますます多くの生産物を生み出すことになる。これが最初に述べた正のフィードバック・ループである。

成長を妨げようとする圧力に対して、従来は技術を適用することによってそれを解決することに成功してきた。これは、文化全体が限界に従って生存することを学ぶよりも、むしろ限界と戦うという原則をもって進歩してきたことを意味する。しかし、成長の過程のどこかで、使用可能な天然資源の大部分が底をついてしまう。あるは汚染の問題が負のフィードバック・ループを形成するようになる。「成長の限界」は、このような問題については技術の発達でなんとかなる、という考えを「技術的楽観主義」と呼んでいる。

そして「成長の限界」は、問題を克服するために「技術的楽観主義」に陥ることを戒めている。技術革新は問題の兆候を除去することはできるが、本質的な原因に作用することはできないとしている。

「成長の限界」における主要な分析を述べてきた。同書で重点がおかれているのは、このモデルによる結果が世界に関して我々に何を告げているかである。そして序論(要約)の中で次のように結論している。

(1)世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来たるべき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は、人口と工業力のかなり突然の、制御不可能な減少であろう。

そして、同じく序論の中で、次のように述べている。

2)こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は、地球上のすべての人の基本的な物質的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。

つまり「成長の限界」は、破局的な行動様式を回避するには、経済成長より持続可能な社会均衡を重要視している。その上で「その達成するために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう。」とも述べている。どうだろう、この50年以上前の結論は現在から見て古くさい荒唐無稽なものだろうか?

「気候変動社会の技術史」の中でも述べられているように、地球温暖化は、温室効果ガスによる環境汚染の一部という考え方がある。持続可能な社会という視点で見ると、地球温暖化のような地球環境問題は、「成長の限界」で議論されているように、成長に臨界点をもたらす汚染の一つと捉えることが出来るだろう。

(次は、「成長の限界」(3)  地球温暖化問題との関連

2025/09/01

「成長の限界」(1) 幾何級数的な成長

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 「成長の限界」を取り上げる理由

「気候変動社会の技術史」において著者のエドワーズは、1972年に発表された本であるローマクラブによる本「成長の限界」を取り上げている。「気候変動社会の技術史」に書かれているように、これは一般向けの書籍として出版され、世界中で700万部以上売れた。

 

成長の限界 

「成長の限界」が斬新だったのは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のフォレスター教授が開発した「ワールド・ワン」と呼ばれるグローバルモデルを用いて、将来予測を行ったことである。この研究は、グローバルモデルを用いて実質的に世界で初めて全球規模での人口や経済などの成長を定量的に予測したものとなっている。そしてその結果は、50年以上経った今でも世界の成長と課題について、本質をついた部分があるのではないかと思われる。

モデルの一般的な利点をおさらいしておきたい。モデルは分析するさまざまな要素の関係性を明示して取り込むことにより、最終的には人間の直感では掴むことができない結果を出すことが出来る特徴を持っている。例えば、アリストテレスは地球から見える星々の動きを、地球の周囲を回る惑星と恒星という関係性で可視化し、宇宙構造のモデルとして人々に提示した。このモデルは天道説ではあったが、これがその後のプトレマイオスやコペルニクスなどによる宇宙モデル改良によって地動説のための叩き台となった。

例えば地動説はいきなり人間の直感から容易に得られるものだろうか?アリストテレスの宇宙モデルは、その後星々の関係性を可視化した叩き台となることによって、西洋科学の発達(つまり現代の我々の暮らし)に計り知れない影響を与えた。一方で、東洋(中国)では、宇宙は渾天説,蓋天説,宣夜説などの星々の動きの数理的な解析が対象となり、宇宙構造を統一的に説明するわかりやすいモデルは出なかった。この差が、東洋ではいわゆる科学革命のようなものが起こらず、ルネサンス以降、西洋科学に水をあけられる原因となったのかもしれない。

さて話を戻す。数値モデルは世界に適用可能な一般性のある定量的な理解や議論を可能にする。フォレスター教授のモデルの結果は、成長をもたらす複雑なシステムに関する関係性を秩序立てて集めて分析したものである。「成長の限界」は、グルーバルモデルを用いた定量的な人類の将来予測の最初のものであり、今から50年以上前に行われた予測結果は、現在から見ると(現時点では)必ずしも当たってはいない部分もある。

しかしこの予測結果は見当違いだったというよりも、「成長の限界」が指摘している課題の多くについて、現実の状況の方が先送りされているだけのように見える。つまり、「成長の限界」の内容や指摘している課題の多くは、本質的にはまだそのまま残っているではなかろうか。「気候変動社会の技術史」で取り上げたように、温暖化予測モデルを用いた地球温暖化の議論は、「成長の限界」でのモデルによる議論とも共通する部分がある。そのため、今回は「成長の限界」での議論を詳しく見てみることにしたい。

幾何級数的成長

現在、世界の人口や経済は幾何級数的な成長あるいは拡大を行っている。「成長の限界」は、この「幾何級数的な成長」を取り上げている。幾何級数的成長とは、一定割合での成長ではなく、倍々ゲームのように時間とともに急激に拡大していくことを指している。しかし、この幾何級数的成長の特徴やそれによる結果は、人間の直感では得にくい。例えば「成長の限界」では、次の例を挙げている。

もし広い池の中に生えている睡蓮が毎日2倍の大きさになり、30日目でその池を完全におおい尽くして池の中の他の生物を窒息させるとする。そうならないように睡蓮が池の半分を覆ったら、その時に刈り取るなどの対策を立てることにする。その日が来るのはいつだろうか?答えは29日目である。つまり、池を救うのに残されているのは1日だけということになる。

池の睡蓮

もちろん、この程度であれば直感でわかる人も多いかもしれない。しかし現実ははるかに複雑である。「成長の限界」では、人口、資本、開発、天然資源、工業産業、農業等生産、汚染、サービス等のざっと70前後の要素とその間の関係性を挙げて、その間の複雑な関係性を分析して予測している。幾何級数的な成長をもたらしているそれらの要因だけでも、的確に把握して精緻に検討・分析して将来予測を行うことは、モデルを用いない直感では不可能に近い。

幾何級数的成長をもたらしている要因

世界の経済成長を考えてみると、各年の生産の大部分は消費財として消費されるが、一部は資本ストックとなって、資本を増加させる投資となる。これは正のフィードバック・ループとなり、増えた資本ストックはさらに投資を増加させて生産を増大させる。この仕組みによって経済成長は繰り返されて、幾何級数的な成長となる。 

幾何級数的な成長の模式図

「成長の限界」は、世界の成長に必要な要素をおおまかに二つのカテゴリーに分けている。第一のカテゴリーは、「生理的活動や産業活動を支える物質的必要物」であり、これには食料、化石燃料などの天然資源と、生産物を再循環させている地球の生態学的システムなどが挙げられる。第二のカテゴリーは、「社会的に必要な要素」であり、これは平和、社会的安定、教育、雇用、技術の進歩などである。これらの要素は成長のための必要条件ではあるが、十分条件ではない。

現在幾何級数的な成長を示している大規模な経済成長は、第一のカテゴリーである天然資源に強く依存している。そしてその利用には、第二のカテゴリーである「社会的に必要な要素」にも強く依存している。例えば産出国と消費国の間の国際関係などの政治が第二のカテゴリーの一つである。これは石油の価格が中東情勢と大きく関連していることでもわかる。

 (次は「成長の限界」(2) 成長の将来予測と結論」


2025/05/26

インフラストラクチャとしての時刻

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今では時間(時刻)は、それを指し示す時計とともに常に身の回りにある当たり前のものとなっているが、エドワーズは時間(時刻)をインフラストラクチャの一つと説いている。

時間という概念がいつ頃から人間に備わったのかはもちろんわからないが、狩猟採集生活においてはそれほど重要なものではなかったかもしれない。ただ漠然と太陽の位置でその日のおよその時刻を知り、暑さ寒さで季節を感じていれば、それほど生活に不自由はなかっただろう。

ところが農耕生活が始まると、季節の把握は重要な事項となった。それは種まきから収穫まで数か月の時間差があるためである。体感だけ種まきを行うと、その時期が早すぎたか遅すぎたかは数か月後の収穫前にならないとわからない。そして、その時点でわかっても既に手遅れな場合があった。これは場合によっては飢えに直結したかもしれない。種まきの時期の把握は極めて重要だった。

このために、暦作りや冬至・夏至の把握が行われた。そしてそれは、為政者にとっても民の信頼を得て民を統治するための重要な手段となった。これはエジプト文明やマヤ文明の記録を見ればわかるし、他のいろんな遺跡でも季節の把握のために日の出の位置などが精密に測られていたことでもわかる。

マヤ文明の天文台
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chichen_Itza_Observatory_2_1.jpg

1日を分割する時刻の方は、それほどシビアな正確さを求められることはなかった。しかし、古代から日時計や水時計など時刻を測ろうという努力は行われた。そして、正午などの決まった時刻には鐘などで周囲に時刻を知らせることが行われるようになった。

 

住民に時刻を知らせた報時球(グリニッジ天文台のもの)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Royal_observatory_greenwich.jpg

17世紀に振り子時計が発明されると、時刻は個人の所有物となっていった。とはいってもその決定はその場所固有のものだった。というのは、そこの時刻はその場所の太陽の南中時で正午などの時刻が決定されていたからである。最速の移動手段が馬などであった時代には、場所による時刻の違いが、不便さをもたらすことはなかった。むしろ、場所による時刻の違いの問題が顕在化したのは航海だった。海洋上での船が位置する経度を天体の位置から知るには、正確な時刻を必要とする。しかし、18世紀末にクロノメータが発明されるまで、出発時の時刻を海洋上で正確に維持して、経度(時刻)を知ることは困難だった。

1800 年頃までは時刻の標準は太陽時だった。正午は文字通り1 日の真ん中(南中)を意味しており、時間の単位はその日の日出と日没の時刻によって変わった。つまり同じ1 時間でも、冬は短くなり夏は長くなった(不定時法)。それは、日本では1872年(明治5年)まで続いた。

比較的正確な振り子時計や海洋でのクロノメータは、その場所の時間の長さを固定したが、その場所(経度)によって決まる時刻の関係性は不正確(不統一)なままだった。多くの場合、時刻はその場所の教会の鐘や公共時計で示され、それはその場所毎に異なった。しかし、旅行者も比較的低速で移動するため、それで不自由はなく、旅行者にとって万国標準時の必要性はなかった。

そういう状況を変えたのは鉄道の登場である。鉄道網の発達により輸送の高速化は乗客の利便性だけではなく、鉄道の運行にとってわずかな時刻の違いが安全性に重大な影響を及ぼした。初期の単線の鉄道システムでは、上りの列車は下りの列車が通過するまで待ち合わせを行っていた。列車の運行が予定時刻通りでない場合、重大な事故がしばしば起こった。当時発達しつつあった単線の鉄道網は、安全性の確保のために正確な統一時刻を必要とした。

そういう状況の中で電信が発明された。これは時刻を含む情報を瞬時に伝えることが出来た。電信ネットワークの拡大による時報のほぼ瞬時の送信によって、鉄道網における車掌と駅長の時計の同期が可能になった。鉄道会社にとっての線路の土地の所有権は、ちょうど電信線ネットワーク敷設のための土地利用権にもなった。鉄道会社は早速線路に沿って電線を張り、電報網を構築した。鉄道網の拡大とともに電信は時刻の標準化を触発した。

もう一つ離れた場所の時刻の一致が重要な分野があった。それが気象学である。気象学者たちは、総観天気図があれば、気象予報を行えることにすぐに気づいた。総観天気図とは、各観測所の気圧や気温などのある時刻の気象状況を一斉に切り取ったように図示化したものである。その天気図の気圧分布や風向と風速を見れば、悪天候をもたらす低気圧や晴天をもたらす高気圧がどの方向にどのくらいの速さで進んでいるかを示した。その結果、それは次にどこで何が起こるかについての合理的な推測のための根拠を提供できた。

しかし各地の時刻は地方時が使われており、そのままではたとえ各地で定時観測を行っても、地方時の違いが、総観天気図の正確性に影響を与えた。それを避けるには、場所に依らない標準時刻を用いた一斉の観測結果の収集を必要とした。これを最初に認識したのは、当時米国で気象予報を担っていた陸軍信号局の気象学者クリーブランド・アッベだった。彼は1870 年に、シンシナティ天文台長から陸軍信号局の新しい気象部門の最初の責任者となった。アッベはすぐに新しいシステムを導入し、信号局の米国中の気象観測者に時報を電報で送るようにして、統一された標準時刻による気象観測がアメリカ大陸で確立された。気象学の場合は独自に電報網を構築する力はなかったために、既存の電報網を利用するしかなかった。

クリーブランド・アッベ(1838 – 1916)

一斉観測を行った結果を図化した総観天気図を用いる気象予報は、国の軍事的および商業的利益にもつながった。そのため、電信を用いた気象観測網の設立は、多くの国家気象局において早急に進められた。電信と気象観測網を組み合わせた組織的な警報体制には、大規模な組織と豊富な資金が必要であったため、それを設立できたのは、政府と軍隊だけだった。

しかしアッベの活動は、米国内の観測時刻の統一だけに留まらなかった。最終的に、彼は鉄道会社と電信会社と米国科学振興協会を通じて、地域毎の時刻の標準化を戦略的に進めた。気象学者であるアッベは、米国だけでなく国際的にも時刻の標準化を推進した。1884年の国際子午線会議で世界標準時の採用、つまりグリニッジ天文台の緯度を0°として、緯度で15°ごとに1時間の時差の定める制度(世界標準時)を強力に進めた一人となった(気象学と気象予報の発達史「気象観測と時刻体系」参照)。これによって、世界中の時刻が系統的に結びつくことになった。時刻はそれ自体がインフラストラクチャとしての基本的でかつグローバルな情報となった。それに伴って気象学に対してもグローバル化への道を開いた。

一方で日本では、1884年の国際子午線会議が開かれた際に、既に中央気象台が京都時を用いて日本全国で気象観測を行っていたのが、明石を通る東経135°が日本標準時になった一因という説もある(気象学と気象予報の発達史「日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(3)暴風警報の準備(2)」参照)。いずれにしても、現代の気象学は、統一的な標準時刻とそれを用いて観測した総観天気図、という強力な組み合わせを含んだインフラストラクチャが生まれたことによって、日々動く大気イメージを作成することにより広域の気象予報が可能になった。

しかしエドワーズが言うように、どんなインフラストラクチャでも、古い標準を新しい標準に置き換えるには「それが組み込まれた基盤が持つ慣性」(摩擦)を克服する必要がある。皮肉なことに、気象学者であるアッベの努力にもかかわらず、国際気象機関(IMO)が標準時刻を受け入れるのは非常に遅かった。アッベの時刻改革運動が始まるちょうど1 年前の1873 年に開かれた最初の国際気象会議は、観測を各観測所の平均太陽時(地方時)に従った観測時間に固定することに合意していた。そのため気象の定時観測では地方時が標準となり、それが20 世紀まで気象学の国際標準であり続けた(地方時を用いた定時観測は、太陽の高度角における日々の気象・気候に焦点を当てることが出来るという長所もある)。国際気象機関が観測に用いるべき標準的な時刻として世界標準時を公式に指定したのは、1946 年だった。

グローバルな標準時は、一斉性のための時刻で連続空間をつないだ。それは広大な地域に住む人々にとって共同体という概念の一部となった。その採用には、瞬時の通信手段と正確な時計というインフラストラクチャが必要だった。また標準時は、時刻の基本的な意味とそれまでの生活経験に関する概念を大きく変えた。それまで自分がいる地方時で暮らしていた場所が、世界標準時では経度によって「年間通して同じ時刻になる地域」という概念上の変化を生み出した。

時刻はそれ自体が基本的でかつグローバルな情報となるとともに、「世界気象監視プログラム」などのはるか先のグローバル化への道を歩み出した気象学と、密接に関連することとなった。

(次は「成長の限界」(1)  幾何級数的な成長

2025/03/04

インフラストラクチャから見た気象観測ネットワーク

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 この本のキーワードの一つはインフラストラクチャである。他の所と重複する部分があるかもしれないが、インフラストラクチャという切り口でこの本を見てみる。

インフラストラクチャとは、一般的に人間活動を「下支えするもの」や「基盤」を意味しており、例えば生活では電気、ガス、水道、インターネット、あるいは物流なども該当する。本の中でエドワーズが述べているように、インフラストラクチャとは、「ある共同体内で高い信頼性を持ち、標準化されて広く利用できる基礎的なシステムとサービスである」。

インフラストラクチャは、私たちにとって普通は目立たない背景として備わっている。しかし、私たちの文明は基本的にそれらに依存しており、そのことに気づくのは災害などでインフラストラクチャが失われたときである。例えば地震や台風などで電気や水道が止まると、真っ先に住民からその不便さがニュースで報道される。

また、インフラストラクチャの特徴は、それが結合性を持ったものであり、それによってインフラストラクチャの機能や利便性が一層向上する。例えば電力網では、風力発電など多様な発電からの電力を組み込んだり、電力が足りない電力網へ余力がある電力網から電力の供給が行われたりする。コンテナでは、トラック、鉄道、船舶などの輸送手段を超えてコンテナを用いた流通が行われている。このように、インフラストラクチャは、時間と空間と社会組織をマクロ、メソ、ミクロのスケールで結合することによって、現代の社会世界における安定した基盤を提供している。

今ではインフラストラクチャという言葉と概念は、広くどこでも使われている。しかし、気象観測網が各国あるいは全球に広がっていった19世紀には、そういう概念はなかった。各国は気象という広域の現象を観測する必要に迫られて、結果として気象観測ネットワークという一種のインフラストラクチャを構成していった。それは、最初は国単位であったが、自国内の観測だけでは十分ではない気象予報の必要性に迫られて、気象観測ネットワークは各国をつないだものとなり、数値予報の必要性から、全球規模に広がった。気象観測ネットワークは、結果として「インフラストラクチャのグローバル化」を行い、気象の「グローバルデータの収集」を行った。

インフラストラクチャである気象観測ネットワークは、各国の観測ネットワークを結合することで、その機能や利便性が一層向上する。しかし、各国が独自に発展させたネットワークを結合させることは、容易ではなかった。そこには「計算摩擦」や「データ摩擦」が存在した。それは技術的な問題だけではなく、人間(手計算だけでなく、主義主張の違いや見栄や自尊心が関与する場合がある)という厄介なものも介在した。

気象観測ネットワークの全球化、つまりそのグローバルなインフラストラクチャ化は、WMO(世界気象機関)という政府間機関の調整組織の存在と世界気象監視(World Weather Watch)プログラムという共通目標によって成し遂げられた。それは「WMOによる世界気象監視(WWW)プログラムの構築」で述べたとおりである。

しかし、気象観測ネットワークというインフラの役割は、グローバルデータの収集だけに終わらなかった。世界気象監視プログラムとそれを研究面から支援した「全球大気研究プログラム(GARP)」からデータ同化(データのグローバル化)という手法が生まれた(「再解析データ」 参照)。データ同化は当初は気象予報のための初期値作成が目的であったが、この初期値作成時に後日のデータを加えて手直しすることにより、「再解析データ」を作成できるようになった。これは一定程度の気象観測データがある過去の期間について、地球上のあらゆる格子点での気象を再現することができることを意味した。つまり、過去100年近くにわたって、気候を数値的にある一貫性を持って再現できるようになった。

 これは気象データと気候データの融合をもたらした(「データを巡る戦争 」参照)。気象データは防災のような日常生活だけでなく、天候デリバティブのように経済とも密接に関連するようになった。また、地球温暖化問題の顕在化によって、気候データの方も単なる地域特性の情報ではなくなった。地球温暖化に関する将来への予測と対応(緩和策)への利用、地域毎の温暖化対策(適応策)への利用というように、生活と密接に関わるようになった。気候データは、IPCCへの貢献や異常気象の分析などに幅広く使われている。これは、気象観測ネットワークだけでなく、そこから得られる気象データや気候データも含めて、それらがインフラストラクチャになってきていることを示している。

最初に述べたように、インフラストラクチャは結合性を持っており、さまざまなものと結合することによって機能や利便性が一層向上する。気象観測ネットワークとそれから得られる気象データや気候データは、防災や経済などのさまざまな活動と結合することによって、インフラストラクチャとしてその重要性や必要性が増大しているといえる。


2024/09/07

気候論争の構造-マスコミが論争に寄与する例-

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気候論争の構造は、一般的なメディアによるその問題の切り取り方(報道の方法)によっても形が決まる。

米国の場合、ジャーナリストは一般的にその職業的訓練と市場の要求によって、流布する意見の中心を代表して報道しようとする。その際に、多くのジャーナリストが持つ「バランスのとれた」報道という職業規範は、基本的に「取材する科学者の専門家としての信頼性を判断する能力は、ジャーナリストにはない」ことを前提としている。

仮に専門家の信頼性を評価する能力があると感じていても、ジャーナリストは読者に複数の視点を提供して読者自身に判断してもらうよう訓練され、また知識のない編集者による制約も受ける場合もある。すると、ジャーナリストは議論のバランスをとるため、科学的裏付けに欠ける懐疑的な見解と信頼できる科学的見解とを「同等」に紹介する。その結果、一般大衆は両者の意見が対等であると受け取る。一方で、論争の先鋭化は、「ニュース性」を高めかつ収益を生む読者層を引きつけそうに見える。これらの特徴が相まって、科学的結論を論争的なものとして報道することが多くなる。

1988 年から2002 年の間にニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ロサンゼルス・タイムズ紙、ウォールストリート・ジャーナル誌に掲載された気候変動に関する340のニュース記事の調査において、マスメディアを研究しているマクセル・ボイコフとジュール・ボイコフは、約53%の記事が地球温暖化の推進派と懐疑派の両方の立場を対等に表現する、「バランスのとれた」ものであることを発見した[1]。すなわち、記事の大半は、科学的裏付けに欠ける懐疑的な見解と信頼できる科学的見解とを同等に紹介しているため、彼らは、これはむしろ偏った報道であると結論づけた。

このような報道は、少数派が公共の議論における長期間の「不釣り合いな支配力の保持」を可能にする。米国の科学と政策の接点に見られるこうした特徴は、気候変動をイデオロギーの問題へと変貌させた。「地球温暖化論者」と「温暖化懐疑派」との間の論争は、長年にわたって続くうちに、環境政策に関する一般的な立場として相並ぶようになった。そのため、著者は「気候科学が信頼に足るかどうかは、一般大衆の多くが判断不能と感じるような不透明な問題となった」と述べている。

ただしこれは米国の場合の話で、欧州各国では、一部揺り戻しがあるのかもしれないが、比較的早くから地球温暖化の合意を受け入れている国が多い。

[1]M. T. Boykoff and J. M. Boykoff, “Climate Change and Journalistic Norms: A Case Study of US Mass-Media Coverage”, Geoforum 38, no. 6 (2007): 1190-204.

2024/08/28

気候論争の構造-公聴会の例-

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ここでは、気候論争の例として、米国で起こった例を挙げる。米国では、科学に関する政策の考え方として、行政上の決定のほとんどは科学的に明確な根拠を持たなければならない。そのために公聴会が開かれることが多く、そこで利害が対立するグループが、政策の妥当性について議論して、それを基に政策が決定される。そしてその公聴会には、それぞれのグループが自分の主張に有利な科学者を公述人として招致することが多い。

 

公聴会の例(2016年2月2日にマンハンタンで開催された公聴会)
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Community_Board_12_Manhattan_Public_Hearing.jpg

一般に科学は、知識生産の基本的な仕組みとして、仲間による批判を含めた開かれたコミュニケーションを重視する。そして、特に自然科学者は不確実性に敏感であり、断定を避けて、誤りの原因となりうるものと、それを修正する新しい方法を常に探し求める傾向がある。ただしその程度にも個人差があり、決定的な証拠しか受け入れない「厳格な(highproof)」科学者と、部分的あるいは暫定的な証拠を受け入れる「進取的な(frontier)」科学者に分かれることがある。

気候論争のような不確実性がある程度入り込まざるを得ない論争になると、温暖化懐疑派に近いグループは、観測結果などの事実に基づいた証拠を重視する「厳格な科学者」を公述人に擁立することが多い。反対に温暖化受容派は、モデル予測を前提とする「進取的な科学者」を擁立することが多くなる。

科学者は一般に不確実性に敏感であるため、モデル予測のような不確実性や確率を含んだ議論に対しては、進取的な科学者による主張はどうしても歯切れが悪い印象を与える。そのため、自然科学が関与する政策は、科学的に明確な根拠を問題にすると、規制を課す政策のための証拠のハードルが非現実的なほど高くなる。この論争のパターンは、農薬、たばこ、公害による健康被害などに広く見られてきたことである(地球温暖化に関する議論のパターンは、それを踏襲しているとも言える)。

しかし「健全な科学議論」の所で述べたように、「経験的事実に基づいた観測データ」と「推測的なモデル結果」という議論は生産的ではなく、結局エドワーズが主張するように、グローバルな気候データについては、純粋なデータも純粋なモデルも存在しない。むしろモデルの結果が示す地球温暖化に関する不確実性は、数多くの知見を集積した結果であり、「不確実性は悪い科学の特徴ではなく、誠実な科学の特徴である」と捉えるべきことなのである。

 

2024/08/22

「健全な科学」議論

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「健全な科学(sound science)」とは、1990 年代半に主に共和党からなるアメリカの環境保守派(米国の保守派は懐疑論者に近い)と気候変動懐疑論者が行った、科学的な証拠はどうあるべきかに関する主張である。その主張とは、「科学は経験的な事実に基づいた健全なデータに導かれなければならない。観測データは議論の余地のない証明を意味するが、モデルの結果は本質的に信頼できない」というものである。

これによって、不確実性を含むモデルの結果が、この議論の槍玉に挙がった。そして、地球温暖化に対する議論として、「経験的事実に基づいた確固とした根拠を持つ観測データ」と「根拠の弱い推測的なモデル結果」が、単純に対立する形となった。

                 モデル対データの議論の模式図

 その例を挙げる。地球からの放射を測定する人工衛星は、いくつかの波長を観測するマイクロ波放射計(MSU)を搭載している。これは、これは地面と大気からの総合的な放射量を見ており、これは温度と密接な関係がある。1990年代に半ばにアラバマ大学ハンツビル校(UAH)は、この放射計の観測データを工夫することによって、対流圏の気温を測定する手法を開発した。

そして、放射計が搭載された1979年から1995年までの対流圏の全球気温トレンドを計算し、その結果は10年当たり-0.07℃の低下傾向を示した。当時、モデルを用いた全球気温は上昇を示していたため、これは議論となった。ここで出てきたのが、科学はモデルの結果ではなく観測結果に立脚すべき、という「健全な科学」議論だった。これはモデル結果を懐疑的に捉える共和党のイデオロギーにうまくはまった。

一見すると、モデルの結果より実際の観測結果の方が信頼性があるように思えるかもしれない。しかし、そうではない。その後起こったことは、1998年のエルニーニョによる高温とデータの蓄積によって、衛星観測による対流圏の全球気温トレンドはプラスへの増加に転じ、さらに衛星観測の処理プログラム、つまりデータ解析モデルの修正によって、その気温トレンドはさらに上昇した。この議論は現在でも完全になくなったわけではないが、問題としてはかなり沈静化している。

ここで問題となるのは、「観測データ対モデル結果」という対立の構図である。衛星による放射量を気温に変換するのにもデータ解析モデルが使用されており、そのモデルはたびたび修正が行われ、その度に結果も変化している。また民間調査会社のリモートセンシング・システムズ(RSS)も同じ観測データを用いて、やはり対流圏の全球平均気温トレンドを出しているが、それはUAHの値とも異なっている(しかもUAHより大きい)。この違いはデータ解析モデルの違いによる。

結局、「データ解析モデル」の所で述べたように、実は観測結果と言っているデータのほとんどは、データ解析モデルで処理されたものである。一方、データイメージのようなモデルの結果も、完全な理論だけで構築されているわけではなく、「データのグローバル化 」の所で述べたように観測データによる拘束を受けている。

つまり観測データ対モデル結果という議論は、ほとんど意味がない。哲学者スティーブン・ノートンやフレデリック・サッピが主張しているように、「適切に解釈され展開されるためには、むしろデータはモデル化されなければならない」のである。つまり、エドワーズが主張しているように、純粋なデータも純粋なモデルも存在しない。「健全な科学」議論のように、観測データとモデル結果は対立するものではなく、「データ解析モデル」の所で述べたように、両者は相互に依存しながら相互に有益となる「モデルとデータとの共生」を示しているのである。