(このブログは「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の公式解説ブログの一部です)
安定した均衡社会へ
話を「成長の限界」へ戻すと、この本は次の問いを発している。
成長に自主的な限界を設定することによって、自然の限界内で生きようとするほうがよいのであろうか。あるいはなんらかの自然の限界につきあたった場合には、技術の飛躍によってさらに成長を続けうるという望みをもって成長し続けるほうがよいのであろうか。
正のフィードバック・ループは、成長が進むと何らかの負のフィードバック・ループによってだんだん阻害されるようになる。そして成長がシステムの環境の限界、すなわち生命維持能力の限界に近づくにつれて、それは次第に強くなる。最後には、負のループが正のループとバランスするかあるいはこれに打ち勝って、成長は否応なく終りを告げることになる。
そのため、「成長の限界」は「成長から世界的な均衡へ」の移行を提唱している。そして、「そのような均衡状態の重要な問題は、生産ではなくて分配となるだろう。そうなると、もはや成長に訴えることによって相対的な配分の問題を避けることはできない」と述べている。そうだとすると、これまでのような成長によってアメリカンドリーム的な貧富の差が拡大する考え方は長続きせずに、資源や所得の再配分のような平等や均衡を前提とした目標に切り替える必要がある。その際に、ローマクラブは、次のように述べている。
多くの国や民族は、性急な救済策として孤立主義に閉じ込もったり、自給自足を試みたりしてシステム全体の働きをいっそう悪化させるのみであろう。世界システムの種々の構成要素には相互依存関係があるために、そのような対応策は結局無意味なものとなるのである。
これまで1972年に出されたローマクラブによる「成長の限界」の内容について説明してきた。この内容はかなり昔に出されたものではあるが、ひょっとすると近未来に起こりえる問題を正確に描写しているのかもしれない。
地球温暖化問題の場合
上記のように「成長の限界」の結論だと、やがて成長が終わるため持続可能な均衡状態の社会に移行することを提唱している。しかし地球温暖化問題では、「成長の限界」では議論していない特有の問題がある。「成長の限界」は手遅れにならないようにするための問題点として、対応の遅延を重視している。しかし地球温暖化の問題は、人間の認識における対応の遅延だけではない。仮に全人類が地球温暖化ガス排出を直ちに止めたとしても、次の点を考慮する必要があるだろう。
- 既に排出された大気中の温室効果ガスを減らさなければならない。特に二酸化炭素は大気中で極めて長い寿命を持っており、その膨大な量を回収しない限りそれによる温室効果を止めることは出来ない。回収には温室効果ガスを排出しない作業によることと、回収のための相当な時間(と費用)が必要になる。
- 大気や海洋が持つ熱慣性の問題がある。特に海洋は熱慣性が大きい上に深海までゆっくりと循環している。いったん上がった海水温はなかなか下がらずに、熱を放出して元の温度に戻るのに多大な時間(数百年以上?)が必要になると思われる。
これは、「成長の限界」(1)で示した車の例で言うならば、車が止まった後もまだ危機は終わらないと言うことである。
地球温暖化の問題は人間にとってきわめて複雑である。さまさまな取り組みが始まってはいるが、温室効果ガスの排出は暮らしや経済と密接に関係しているので、対策(緩和策)の実効を上げる、つまり温室効果ガスの排出が減る兆候が現れるのに時間がかかっている。そのことは、京都議定書(1997年)から既に30年近く経っても温室効果ガス濃度は増え続け、下がる気配がないことからも明らかである。全球平均の二酸化炭素濃度の推移。2024年版の世界気象機関「温室効果ガス年報(気象庁和訳)」より。https://www.data.jma.go.jp/env/info/wdcgg/GHG_Bulletin-20_j.pdf
地球温暖化問題の究極の解決には、
①排出削減によって温室効果ガス濃度が下がり始める。
②その濃度がある低いレベルで安定する。
③気温が下がり始めて温暖化以前の状態に戻る。
の3つの段階があることがわかる。
これはまさに、「成長の限界」(2) で示した 「その達成のために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう」ということである。温暖化防止対策のための温室効果ガスの排出削減に、実効が上がっている兆候が少しでも早く見えることを願っている。