2024/08/28

気候論争の構造-公聴会の例-

ここでは、気候論争の例として、米国で起こった例を挙げる。米国では、科学に関する政策の考え方として、行政上の決定のほとんどは科学的に明確な根拠を持たなければならない。そのために公聴会が開かれることが多く、そこで利害が対立するグループが、政策の妥当性について議論して、それを基に政策が決定される。そしてその公聴会には、それぞれのグループが自分の主張に有利な科学者を公述人として招致することが多い。

 

公聴会の例(2016年2月2日にマンハンタンで開催された公聴会)
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Community_Board_12_Manhattan_Public_Hearing.jpg

一般に科学は、知識生産の基本的な仕組みとして、仲間による批判を含めた開かれたコミュニケーションを重視する。そして、特に自然科学者は不確実性に敏感であり、断定を避けて、誤りの原因となりうるものと、それを修正する新しい方法を常に探し求める傾向がある。ただしその程度にも個人差があり、決定的な証拠しか受け入れない「厳格な(highproof)」科学者と、部分的あるいは暫定的な証拠を受け入れる「進取的な(frontier)」科学者に分かれることがある。

気候論争のような不確実性がある程度入り込まざるを得ない論争になると、温暖化懐疑派に近いグループは、観測結果などの事実に基づいた証拠を重視する「厳格な科学者」を公述人に擁立することが多い。反対に温暖化受容派は、モデル予測を前提とする「進取的な科学者」を擁立することが多くなる。

科学者は一般に不確実性に敏感であるため、モデル予測のような不確実性や確率を含んだ議論に対しては、進取的な科学者による主張はどうしても歯切れが悪い印象を与える。そのため、自然科学が関与する政策は、科学的に明確な根拠を問題にすると、規制を課す政策のための証拠のハードルが非現実的なほど高くなる。この論争のパターンは、農薬、たばこ、公害による健康被害などに広く見られてきたことである(地球温暖化に関する議論のパターンは、それを踏襲しているとも言える)。

しかし「健全な科学議論」の所で述べたように、「経験的事実に基づいた観測データ」と「推測的なモデル結果」という議論は生産的ではなく、結局エドワーズが主張するように、グローバルな気候データについては、純粋なデータも純粋なモデルも存在しない。むしろモデルの結果が示す地球温暖化に関する不確実性は、数多くの知見を集積した結果であり、「不確実性は悪い科学の特徴ではなく、誠実な科学の特徴である」と捉えるべきことなのである。