気候論争の構造は、一般的なメディアによるその問題の切り取り方(報道の方法)によっても形が決まる。
米国の場合、ジャーナリストは一般的にその職業的訓練と市場の要求によって、流布する意見の中心を代表して報道しようとする。その際に、多くのジャーナリストが持つ「バランスのとれた」報道という職業規範は、基本的に「取材する科学者の専門家としての信頼性を判断する能力は、ジャーナリストにはない」ことを前提としている。
仮に専門家の信頼性を評価する能力があると感じていても、ジャーナリストは読者に複数の視点を提供して読者自身に判断してもらうよう訓練され、また知識のない編集者による制約も受ける場合もある。すると、ジャーナリストは議論のバランスをとるため、科学的裏付けに欠ける懐疑的な見解と信頼できる科学的見解とを「同等」に紹介する。その結果、一般大衆は両者の意見が対等であると受け取る。一方で、論争の先鋭化は、「ニュース性」を高めかつ収益を生む読者層を引きつけそうに見える。これらの特徴が相まって、科学的結論を論争的なものとして報道することが多くなる。
1988 年から2002 年の間にニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙、ロサンゼルス・タイムズ紙、ウォールストリート・ジャーナル誌に掲載された気候変動に関する340のニュース記事の調査において、マスメディアを研究しているマクセル・ボイコフとジュール・ボイコフは、約53%の記事が地球温暖化の推進派と懐疑派の両方の立場を対等に表現する、「バランスのとれた」ものであることを発見した[1]。すなわち、記事の大半は、科学的裏付けに欠ける懐疑的な見解と信頼できる科学的見解とを同等に紹介しているため、彼らは、これはむしろ偏った報道であると結論づけた。
このような報道は、少数派が公共の議論における長期間の「不釣り合いな支配力の保持」を可能にする。米国の科学と政策の接点に見られるこうした特徴は、気候変動をイデオロギーの問題へと変貌させた。「地球温暖化論者」と「温暖化懐疑派」との間の論争は、長年にわたって続くうちに、環境政策に関する一般的な立場として相並ぶようになった。そのため、著者は「気候科学が信頼に足るかどうかは、一般大衆の多くが判断不能と感じるような不透明な問題となった」と述べている。
ただしこれは米国の場合の話で、欧州各国では、一部揺り戻しがあるのかもしれないが、比較的早くから地球温暖化の合意を受け入れている国が多い。
[1]M. T. Boykoff and J. M. Boykoff, “Climate Change and Journalistic Norms: A Case Study of US Mass-Media Coverage”, Geoforum 38, no. 6 (2007): 1190-204.