2025/09/07

「成長の限界」(3) 地球温暖化問題との関連

(このブログは「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の公式解説ブログの一部です)

 

安定した均衡社会へ

成長の限界は、グローバルモデルによってさまざまな成長要因を分析し、将来予測を行った。この結果には一部から異論が提唱され、今でも議論が続いている。逆に言えば、この50年間の技術の進歩をもってしても、「成長の限界」の結論を完全に否定することは出来ていない。私は、この予測は定量的には当たっていないが、その定性的な結果にはまだ否定できない確固たる根拠が残っていると思っている。それは言い換えれば、各影響要素の関係性をきちんとモデルに織り込めば、モデルによる将来予測はそれなりに信頼性があることを示している。 
 
地球温暖化モデルによる将来予測は、「成長の限界」で行ったような予測を、温室効果ガスの排出シナリオとそれに対する自然の応答を最新の知見によって精緻化して行ったもの考えることが出来るだろう。そう考えると今後予測された上昇気温の多少の変化はあっても、「温室効果ガスの排出によって地球が温暖化する」という結論を覆すほどの知見は、新たに出てきそうにないと思っている。

話を「成長の限界」へ戻すと、この本は次の問いを発している。

成長に自主的な限界を設定することによって、自然の限界内で生きようとするほうがよいのであろうか。あるいはなんらかの自然の限界につきあたった場合には、技術の飛躍によってさらに成長を続けうるという望みをもって成長し続けるほうがよいのであろうか。

正のフィードバック・ループは、成長が進むと何らかの負のフィードバック・ループによってだんだん阻害されるようになる。そして成長がシステムの環境の限界、すなわち生命維持能力の限界に近づくにつれて、それは次第に強くなる。最後には、負のループが正のループとバランスするかあるいはこれに打ち勝って、成長は否応なく終りを告げることになる。

そのため、「成長の限界」は「成長から世界的な均衡へ」の移行を提唱している。そして、「そのような均衡状態の重要な問題は、生産ではなくて分配となるだろう。そうなると、もはや成長に訴えることによって相対的な配分の問題を避けることはできない」と述べている。そうだとすると、これまでのような成長によってアメリカンドリーム的な貧富の差が拡大する考え方は長続きせずに、資源や所得の再配分のような平等や均衡を前提とした目標に切り替える必要がある。その際に、ローマクラブは、次のように述べている。

多くの国や民族は、性急な救済策として孤立主義に閉じ込もったり、自給自足を試みたりしてシステム全体の働きをいっそう悪化させるのみであろう。世界システムの種々の構成要素には相互依存関係があるために、そのような対応策は結局無意味なものとなるのである。

これまで1972年に出されたローマクラブによる「成長の限界」の内容について説明してきた。この内容はかなり昔に出されたものではあるが、的外れなものだろうか?むしろ近未来に起こりえる問題を正確に描写しているのかもしれない。

地球温暖化問題の場合 

上記のように「成長の限界」の結論だと、やがて成長が終わるため持続可能な均衡状態の社会に移行することを提唱している。しかし地球温暖化問題では、「成長の限界」では議論していない特有の問題がある。「成長の限界」は手遅れにならないようにするための問題点として、対応の遅延を重視している。しかし地球温暖化の問題は、人間の認識における対応の遅延だけではない。仮に全人類が地球温暖化ガス排出を直ちに止めることに成功したとしても、次の点を考慮する必要があるだろう。

  1.  既に排出された大気中の温室効果ガスを減らさなければならない。特に二酸化炭素は大気中で極めて長い寿命を持っており、その膨大な量を回収しない限りそれによる温室効果を止めることは出来ない。回収には温室効果ガスを排出しない作業によることと、回収のための相当な時間(と費用)が必要になる。
  2.  大気や海洋が持つ熱慣性の問題がある。特に海洋は熱慣性が大きい上に深海までゆっくりと循環している。いったん上がった海水温はなかなか下がらずに、熱を放出して元の温度に戻るのに多大な時間(数百年以上?)が必要になると思われる。

これは、「成長の限界」(1で示した車の例で言うならば、車が止まった後もまだ危機は終わらないと言うことである。

地球温暖化の問題は人間にとってきわめて複雑である。さまさまな取り組みが始まってはいるが、温室効果ガスの排出は暮らしや経済と密接に関係しているので、対策(緩和策)の実効を上げる、つまり温室効果ガスの排出が減る兆候が現れるのに時間がかかっている。そのことは、京都議定書(1997年)から既に30年近く経っても温室効果ガス濃度は増え続け、下がる気配がないことからも明らかである。

 

全球平均の二酸化炭素濃度の推移。2024年版の世界気象機関「温室効果ガス年報(気象庁和訳)」より。https://www.data.jma.go.jp/env/info/wdcgg/GHG_Bulletin-20_j.pdf。ギザギザしているのは、主に森林などによる北半球夏の吸収と北半球冬の放出による季節変化。赤線はその変化を平滑化したもの。

地球温暖化問題の究極の解決には、
  ①排出削減によって温室効果ガス濃度が下がり始める。
  ②その濃度がある低いレベルで安定する。
  ③気温が下がり始めて温暖化以前の状態に戻る。
の3つの段階があることがわかる。

これはまさに、「成長の限界」(2)  で示した 「その達成のために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう」ということである。温暖化防止対策のための温室効果ガスの排出削減に、実効が上がっている兆候が少しでも早く見えることを願っている。

2025/09/02

「成長の限界」(2) 成長の将来予測と結論

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 成長の将来予測

経済などの長期間にわたる将来予測を行なうためには、食糧の増加率や資源消費量などの多くの要因に関する関係を計算に入れる必要がある。しかしこれらの総合的な関係は、先に述べたように直観的に理解することができないほど複雑な構造をもっている。将来予測を行うためには、多くの要因の相互に関連した複雑な関係を正確に捉えなければならない。このようなものを正確に分析・理解して将来を予測しようとすると、関係性を定式化して、それらを統合した全世界的なベースで計算する手法、つまりグローバルな数値モデルが必要となる。

 

要因間の関係性は、要因が増えると飛躍的に増加する。これらを直観的に理解することは不可能に近い。

ここでは「成長の限界」による予測結果を詳細に解説することはしない。その将来予測の分析結果に興味がある方は「成長の限界」の本を見てもらいたい。「成長の限界」が導き出した結論の一つは、「現在のシステムにこのまま大きな変革がないと仮定すれば、人口と工業の成長は遅くとも次の世紀内(つまり21世紀)に確実に停止するだろう」ということである。「成長の限界」は次のように結論している。

世界モデルの計算では、自由に「行きつくところまで」成長させるべきであるという最初の仮定をとるかぎり、破局的な行動様式を回避する一組の政策を見つけ出すことは不可能であった。

この本では、「行動様式」とは、時間の進行とともに変化する傾向を意味している。今までいろいろと試してきた世界システムの基本的な行動様式では、このままでは人口および資本の幾何級数的成長によって、成長は破綻すると予測されている。

「成長の限界」では、エネルギー問題については原子力エネルギーを使って当面は解決できる、としている(ただし核の廃棄物を汚染として重視している)。ここではその是非については置いておくが、「成長の限界」では、

エネルギー問題の解決による「無限」のエネルギー資源は、汚染の問題によって世界システムの成長を支える鍵とはならないように思われる。

と結論している。この汚染は、「成長の限界」では当時の公害などを指しているが、現在では地球環境問題のようなもっと広域の課題も含まれると捉えることが可能と思われる。

技術革新と「成長の限界」

人類の近代の歴史は、生起した問題による限界を技術革新によって克服してきた。そして多くの人々は、引き続き技術革新によって自然が持つ限界を無限に克服し続けることができる、と期待を抱いている。しかし、「成長の限界」では、そうはならないと結論している。そして、その理由として次の2つを挙げている。

l  複雑なシステムにおける急速な幾何級数的成長

l  対応のための時間の遅れ(原因と結果との間に起こる遅れ、人間が原因を認識するまでの遅れ、対策が効果を上げるための遅れ)

「対応のための時間の遅れ」とは、例えば車の運転の場合、人間が危険を認識すれば回避するためのブレーキを踏むが、その動作と応答(自動車が実際に止まるまで)との間にはどうしても時間の遅れが存在する。そして、仮に技術的な対策が可能だとしても、幾何級数的成長のようにシステム自体が急激な変化をとげている場合(例えば高速で走行している車の場合)は、この対策にかかる時間遅れによって、手遅れになることがあり得ることを示している。しかもこの対応は、技術的なものだけでなく第二のカテゴリーである社会的(政治的、倫理的、文化的)な対応も必要となる。しかし、その対応はこれまで速やかに行なわれたことがほとんどないとしている。

地球温暖化問題で言うと、「適応策」(温暖化した世界の中で暮らしていく技術)も技術革新の中に入るかもしれない。ある程度の地球温暖化は既に避けられないとされている以上、技術的な革新による適応策は必要である。しかし、それで地球温暖化問題が全て克服される(つまり温暖化する前のような暮らしに戻れる)わけではないことも、心に留めておかなければならない。

「成長の限界」の結論

経済成長の一部は、資本ストックとなって資本を増加させ、それは投資を増加させる。その結果、増えた資本ストックは、ますます多くの生産物を生み出すことになる。これが最初に述べた正のフィードバック・ループである。

成長を妨げようとする圧力に対して、従来は技術を適用することによってそれを解決することに成功してきた。これは、文化全体が限界に従って生存することを学ぶよりも、むしろ限界と戦うという原則をもって進歩してきたことを意味する。しかし、成長の過程のどこかで、使用可能な天然資源の大部分が底をついてしまう。あるは汚染の問題が負のフィードバック・ループを形成するようになる。「成長の限界」は、このような問題については技術の発達でなんとかなる、という考えを「技術的楽観主義」と呼んでいる。

そして「成長の限界」は、問題を克服するために「技術的楽観主義」に陥ることを戒めている。技術革新は問題の兆候を除去することはできるが、本質的な原因に作用することはできないとしている。

「成長の限界」における主要な分析を述べてきた。同書で重点がおかれているのは、このモデルによる結果が世界に関して我々に何を告げているかである。そして序論(要約)の中で次のように結論している。

(1)世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来たるべき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろう。もっとも起こる見込みの強い結末は、人口と工業力のかなり突然の、制御不可能な減少であろう。

そして、同じく序論の中で、次のように述べている。

2)こうした成長の趨勢を変更し、将来長期にわたって持続可能な生態学的ならびに経済的な安定性を打ち立てることは可能である。この全般的な均衡状態は、地球上のすべての人の基本的な物質的必要が満たされ、すべての人が個人としての人間的な能力を実現する平等な機会をもつように設計しうるであろう。

つまり「成長の限界」は、破局的な行動様式を回避するには、経済成長より持続可能な社会均衡を重要視している。その上で「その達成するために行動を開始するのが早ければ早いほど、それに成功する機会は大きいであろう。」とも述べている。どうだろう、この50年以上前の結論は現在から見て古くさい荒唐無稽なものだろうか?

「気候変動社会の技術史」の中でも述べられているように、地球温暖化は、温室効果ガスによる環境汚染の一部という考え方がある。持続可能な社会という視点で見ると、地球温暖化のような地球環境問題は、「成長の限界」で議論されているように、成長に臨界点をもたらす汚染の一つと捉えることが出来るだろう。

(次は、「成長の限界」(3)  地球温暖化問題との関連

2025/09/01

「成長の限界」(1) 幾何級数的な成長

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 「成長の限界」を取り上げる理由

「気候変動社会の技術史」において著者のエドワーズは、1972年に発表された本であるローマクラブによる本「成長の限界」を取り上げている。「気候変動社会の技術史」に書かれているように、これは一般向けの書籍として出版され、世界中で700万部以上売れた。

 

成長の限界 

「成長の限界」が斬新だったのは、マサチューセッツ工科大学(MIT)のフォレスター教授が開発した「ワールド・ワン」と呼ばれるグローバルモデルを用いて、将来予測を行ったことである。この研究は、グローバルモデルを用いて実質的に世界で初めて全球規模での人口や経済などの成長を定量的に予測したものとなっている。そしてその結果は、50年以上経った今でも世界の成長と課題について、本質をついた部分があるのではないかと思われる。

モデルの一般的な利点をおさらいしておきたい。モデルは分析するさまざまな要素の関係性を明示して取り込むことにより、最終的には人間の直感では掴むことができない結果を出すことが出来る特徴を持っている。例えば、アリストテレスは地球から見える星々の動きを、地球の周囲を回る惑星と恒星という関係性で可視化し、宇宙構造のモデルとして人々に提示した。このモデルは天道説ではあったが、これがその後のプトレマイオスやコペルニクスなどによる宇宙モデル改良によって地動説のための叩き台となった。

例えば地動説はいきなり人間の直感から容易に得られるものだろうか?アリストテレスの宇宙モデルは、その後星々の関係性を可視化した叩き台となることによって、西洋科学の発達(つまり現代の我々の暮らし)に計り知れない影響を与えた。一方で、東洋(中国)では、宇宙は渾天説,蓋天説,宣夜説などの星々の動きの数理的な解析が対象となり、宇宙構造を統一的に説明するわかりやすいモデルは出なかった。この差が、東洋ではいわゆる科学革命のようなものが起こらず、ルネサンス以降、西洋科学に水をあけられる原因となったのかもしれない。

さて話を戻す。数値モデルは世界に適用可能な一般性のある定量的な理解や議論を可能にする。フォレスター教授のモデルの結果は、成長をもたらす複雑なシステムに関する関係性を秩序立てて集めて分析したものである。「成長の限界」は、グルーバルモデルを用いた定量的な人類の将来予測の最初のものであり、今から50年以上前に行われた予測結果は、現在から見ると(現時点では)必ずしも当たってはいない部分もある。

しかしこの予測結果は見当違いだったというよりも、「成長の限界」が指摘している課題の多くについて、現実の状況の方が先送りされているだけのように見える。つまり、「成長の限界」の内容や指摘している課題の多くは、本質的にはまだそのまま残っているではなかろうか。「気候変動社会の技術史」で取り上げたように、温暖化予測モデルを用いた地球温暖化の議論は、「成長の限界」でのモデルによる議論とも共通する部分がある。そのため、今回は「成長の限界」での議論を詳しく見てみることにしたい。

幾何級数的成長

現在、世界の人口や経済は幾何級数的な成長あるいは拡大を行っている。「成長の限界」は、この「幾何級数的な成長」を取り上げている。幾何級数的成長とは、一定割合での成長ではなく、倍々ゲームのように時間とともに急激に拡大していくことを指している。しかし、この幾何級数的成長の特徴やそれによる結果は、人間の直感では得にくい。例えば「成長の限界」では、次の例を挙げている。

もし広い池の中に生えている睡蓮が毎日2倍の大きさになり、30日目でその池を完全におおい尽くして池の中の他の生物を窒息させるとする。そうならないように睡蓮が池の半分を覆ったら、その時に刈り取るなどの対策を立てることにする。その日が来るのはいつだろうか?答えは29日目である。つまり、池を救うのに残されているのは1日だけということになる。

池の睡蓮

もちろん、この程度であれば直感でわかる人も多いかもしれない。しかし現実ははるかに複雑である。「成長の限界」では、人口、資本、開発、天然資源、工業産業、農業等生産、汚染、サービス等のざっと70前後の要素とその間の関係性を挙げて、その間の複雑な関係性を分析して予測している。幾何級数的な成長をもたらしているそれらの要因だけでも、的確に把握して精緻に検討・分析して将来予測を行うことは、モデルを用いない直感では不可能に近い。

幾何級数的成長をもたらしている要因

世界の経済成長を考えてみると、各年の生産の大部分は消費財として消費されるが、一部は資本ストックとなって、資本を増加させる投資となる。これは正のフィードバック・ループとなり、増えた資本ストックはさらに投資を増加させて生産を増大させる。この仕組みによって経済成長は繰り返されて、幾何級数的な成長となる。 

幾何級数的な成長の模式図

「成長の限界」は、世界の成長に必要な要素をおおまかに二つのカテゴリーに分けている。第一のカテゴリーは、「生理的活動や産業活動を支える物質的必要物」であり、これには食料、化石燃料などの天然資源と、生産物を再循環させている地球の生態学的システムなどが挙げられる。第二のカテゴリーは、「社会的に必要な要素」であり、これは平和、社会的安定、教育、雇用、技術の進歩などである。これらの要素は成長のための必要条件ではあるが、十分条件ではない。

現在幾何級数的な成長を示している大規模な経済成長は、第一のカテゴリーである天然資源に強く依存している。そしてその利用には、第二のカテゴリーである「社会的に必要な要素」にも強く依存している。例えば産出国と消費国の間の国際関係などの政治が第二のカテゴリーの一つである。これは石油の価格が中東情勢と大きく関連していることでもわかる。

 (次は「成長の限界」(2) 成長の将来予測と結論」


2025/05/26

インフラストラクチャとしての時刻

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今では時間(時刻)は、それを指し示す時計とともに常に身の回りにある当たり前のものとなっているが、エドワーズは時間(時刻)をインフラストラクチャの一つと説いている。

時間という概念がいつ頃から人間に備わったのかはもちろんわからないが、狩猟採集生活においてはそれほど重要なものではなかったかもしれない。ただ漠然と太陽の位置でその日のおよその時刻を知り、暑さ寒さで季節を感じていれば、それほど生活に不自由はなかっただろう。

ところが農耕生活が始まると、季節の把握は重要な事項となった。それは種まきから収穫まで数か月の時間差があるためである。体感だけ種まきを行うと、その時期が早すぎたか遅すぎたかは数か月後の収穫前にならないとわからない。そして、その時点でわかっても既に手遅れな場合があった。これは場合によっては飢えに直結したかもしれない。種まきの時期の把握は極めて重要だった。

このために、暦作りや冬至・夏至の把握が行われた。そしてそれは、為政者にとっても民の信頼を得て民を統治するための重要な手段となった。これはエジプト文明やマヤ文明の記録を見ればわかるし、他のいろんな遺跡でも季節の把握のために日の出の位置などが精密に測られていたことでもわかる。

マヤ文明の天文台
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chichen_Itza_Observatory_2_1.jpg

1日を分割する時刻の方は、それほどシビアな正確さを求められることはなかった。しかし、古代から日時計や水時計など時刻を測ろうという努力は行われた。そして、正午などの決まった時刻には鐘などで周囲に時刻を知らせることが行われるようになった。

 

住民に時刻を知らせた報時球(グリニッジ天文台のもの)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Royal_observatory_greenwich.jpg

17世紀に振り子時計が発明されると、時刻は個人の所有物となっていった。とはいってもその決定はその場所固有のものだった。というのは、そこの時刻はその場所の太陽の南中時で正午などの時刻が決定されていたからである。最速の移動手段が馬などであった時代には、場所による時刻の違いが、不便さをもたらすことはなかった。むしろ、場所による時刻の違いの問題が顕在化したのは航海だった。海洋上での船が位置する経度を天体の位置から知るには、正確な時刻を必要とする。しかし、18世紀末にクロノメータが発明されるまで、出発時の時刻を海洋上で正確に維持して、経度(時刻)を知ることは困難だった。

1800 年頃までは時刻の標準は太陽時だった。正午は文字通り1 日の真ん中(南中)を意味しており、時間の単位はその日の日出と日没の時刻によって変わった。つまり同じ1 時間でも、冬は短くなり夏は長くなった(不定時法)。それは、日本では1872年(明治5年)まで続いた。

比較的正確な振り子時計や海洋でのクロノメータは、その場所の時間の長さを固定したが、その場所(経度)によって決まる時刻の関係性は不正確(不統一)なままだった。多くの場合、時刻はその場所の教会の鐘や公共時計で示され、それはその場所毎に異なった。しかし、旅行者も比較的低速で移動するため、それで不自由はなく、旅行者にとって万国標準時の必要性はなかった。

そういう状況を変えたのは鉄道の登場である。鉄道網の発達により輸送の高速化は乗客の利便性だけではなく、鉄道の運行にとってわずかな時刻の違いが安全性に重大な影響を及ぼした。初期の単線の鉄道システムでは、上りの列車は下りの列車が通過するまで待ち合わせを行っていた。列車の運行が予定時刻通りでない場合、重大な事故がしばしば起こった。当時発達しつつあった単線の鉄道網は、安全性の確保のために正確な統一時刻を必要とした。

そういう状況の中で電信が発明された。これは時刻を含む情報を瞬時に伝えることが出来た。電信ネットワークの拡大による時報のほぼ瞬時の送信によって、鉄道網における車掌と駅長の時計の同期が可能になった。鉄道会社にとっての線路の土地の所有権は、ちょうど電信線ネットワーク敷設のための土地利用権にもなった。鉄道会社は早速線路に沿って電線を張り、電報網を構築した。鉄道網の拡大とともに電信は時刻の標準化を触発した。

もう一つ離れた場所の時刻の一致が重要な分野があった。それが気象学である。気象学者たちは、総観天気図があれば、気象予報を行えることにすぐに気づいた。総観天気図とは、各観測所の気圧や気温などのある時刻の気象状況を一斉に切り取ったように図示化したものである。その天気図の気圧分布や風向と風速を見れば、悪天候をもたらす低気圧や晴天をもたらす高気圧がどの方向にどのくらいの速さで進んでいるかを示した。その結果、それは次にどこで何が起こるかについての合理的な推測のための根拠を提供できた。

しかし各地の時刻は地方時が使われており、そのままではたとえ各地で定時観測を行っても、地方時の違いが、総観天気図の正確性に影響を与えた。それを避けるには、場所に依らない標準時刻を用いた一斉の観測結果の収集を必要とした。これを最初に認識したのは、当時米国で気象予報を担っていた陸軍信号局の気象学者クリーブランド・アッベだった。彼は1870 年に、シンシナティ天文台長から陸軍信号局の新しい気象部門の最初の責任者となった。アッベはすぐに新しいシステムを導入し、信号局の米国中の気象観測者に時報を電報で送るようにして、統一された標準時刻による気象観測がアメリカ大陸で確立された。気象学の場合は独自に電報網を構築する力はなかったために、既存の電報網を利用するしかなかった。

クリーブランド・アッベ(1838 – 1916)

一斉観測を行った結果を図化した総観天気図を用いる気象予報は、国の軍事的および商業的利益にもつながった。そのため、電信を用いた気象観測網の設立は、多くの国家気象局において早急に進められた。電信と気象観測網を組み合わせた組織的な警報体制には、大規模な組織と豊富な資金が必要であったため、それを設立できたのは、政府と軍隊だけだった。

しかしアッベの活動は、米国内の観測時刻の統一だけに留まらなかった。最終的に、彼は鉄道会社と電信会社と米国科学振興協会を通じて、地域毎の時刻の標準化を戦略的に進めた。気象学者であるアッベは、米国だけでなく国際的にも時刻の標準化を推進した。1884年の国際子午線会議で世界標準時の採用、つまりグリニッジ天文台の緯度を0°として、緯度で15°ごとに1時間の時差の定める制度(世界標準時)を強力に進めた一人となった(気象学と気象予報の発達史「気象観測と時刻体系」参照)。これによって、世界中の時刻が系統的に結びつくことになった。時刻はそれ自体がインフラストラクチャとしての基本的でかつグローバルな情報となった。それに伴って気象学に対してもグローバル化への道を開いた。

一方で日本では、1884年の国際子午線会議が開かれた際に、既に中央気象台が京都時を用いて日本全国で気象観測を行っていたのが、明石を通る東経135°が日本標準時になった一因という説もある(気象学と気象予報の発達史「日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(3)暴風警報の準備(2)」参照)。いずれにしても、現代の気象学は、統一的な標準時刻とそれを用いて観測した総観天気図、という強力な組み合わせを含んだインフラストラクチャが生まれたことによって、日々動く大気イメージを作成することにより広域の気象予報が可能になった。

しかしエドワーズが言うように、どんなインフラストラクチャでも、古い標準を新しい標準に置き換えるには「それが組み込まれた基盤が持つ慣性」(摩擦)を克服する必要がある。皮肉なことに、気象学者であるアッベの努力にもかかわらず、国際気象機関(IMO)が標準時刻を受け入れるのは非常に遅かった。アッベの時刻改革運動が始まるちょうど1 年前の1873 年に開かれた最初の国際気象会議は、観測を各観測所の平均太陽時(地方時)に従った観測時間に固定することに合意していた。そのため気象の定時観測では地方時が標準となり、それが20 世紀まで気象学の国際標準であり続けた(地方時を用いた定時観測は、太陽の高度角における日々の気象・気候に焦点を当てることが出来るという長所もある)。国際気象機関が観測に用いるべき標準的な時刻として世界標準時を公式に指定したのは、1946 年だった。

グローバルな標準時は、一斉性のための時刻で連続空間をつないだ。それは広大な地域に住む人々にとって共同体という概念の一部となった。その採用には、瞬時の通信手段と正確な時計というインフラストラクチャが必要だった。また標準時は、時刻の基本的な意味とそれまでの生活経験に関する概念を大きく変えた。それまで自分がいる地方時で暮らしていた場所が、世界標準時では経度によって「年間通して同じ時刻になる地域」という概念上の変化を生み出した。

時刻はそれ自体が基本的でかつグローバルな情報となるとともに、「世界気象監視プログラム」などのはるか先のグローバル化への道を歩み出した気象学と、密接に関連することとなった。

(次は「成長の限界」(1)  幾何級数的な成長

2025/03/04

インフラストラクチャから見た気象観測ネットワーク

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 この本のキーワードの一つはインフラストラクチャである。他の所と重複する部分があるかもしれないが、インフラストラクチャという切り口でこの本を見てみる。

インフラストラクチャとは、一般的に人間活動を「下支えするもの」や「基盤」を意味しており、例えば生活では電気、ガス、水道、インターネット、あるいは物流なども該当する。本の中でエドワーズが述べているように、インフラストラクチャとは、「ある共同体内で高い信頼性を持ち、標準化されて広く利用できる基礎的なシステムとサービスである」。

インフラストラクチャは、私たちにとって普通は目立たない背景として備わっている。しかし、私たちの文明は基本的にそれらに依存しており、そのことに気づくのは災害などでインフラストラクチャが失われたときである。例えば地震や台風などで電気や水道が止まると、真っ先に住民からその不便さがニュースで報道される。

また、インフラストラクチャの特徴は、それが結合性を持ったものであり、それによってインフラストラクチャの機能や利便性が一層向上する。例えば電力網では、風力発電など多様な発電からの電力を組み込んだり、電力が足りない電力網へ余力がある電力網から電力の供給が行われたりする。コンテナでは、トラック、鉄道、船舶などの輸送手段を超えてコンテナを用いた流通が行われている。このように、インフラストラクチャは、時間と空間と社会組織をマクロ、メソ、ミクロのスケールで結合することによって、現代の社会世界における安定した基盤を提供している。

今ではインフラストラクチャという言葉と概念は、広くどこでも使われている。しかし、気象観測網が各国あるいは全球に広がっていった19世紀には、そういう概念はなかった。各国は気象という広域の現象を観測する必要に迫られて、結果として気象観測ネットワークという一種のインフラストラクチャを構成していった。それは、最初は国単位であったが、自国内の観測だけでは十分ではない気象予報の必要性に迫られて、気象観測ネットワークは各国をつないだものとなり、数値予報の必要性から、全球規模に広がった。気象観測ネットワークは、結果として「インフラストラクチャのグローバル化」を行い、気象の「グローバルデータの収集」を行った。

インフラストラクチャである気象観測ネットワークは、各国の観測ネットワークを結合することで、その機能や利便性が一層向上する。しかし、各国が独自に発展させたネットワークを結合させることは、容易ではなかった。そこには「計算摩擦」や「データ摩擦」が存在した。それは技術的な問題だけではなく、人間(手計算だけでなく、主義主張の違いや見栄や自尊心が関与する場合がある)という厄介なものも介在した。

気象観測ネットワークの全球化、つまりそのグローバルなインフラストラクチャ化は、WMO(世界気象機関)という政府間機関の調整組織の存在と世界気象監視(World Weather Watch)プログラムという共通目標によって成し遂げられた。それは「WMOによる世界気象監視(WWW)プログラムの構築」で述べたとおりである。

しかし、気象観測ネットワークというインフラの役割は、グローバルデータの収集だけに終わらなかった。世界気象監視プログラムとそれを研究面から支援した「全球大気研究プログラム(GARP)」からデータ同化(データのグローバル化)という手法が生まれた(「再解析データ」 参照)。データ同化は当初は気象予報のための初期値作成が目的であったが、この初期値作成時に後日のデータを加えて手直しすることにより、「再解析データ」を作成できるようになった。これは一定程度の気象観測データがある過去の期間について、地球上のあらゆる格子点での気象を再現することができることを意味した。つまり、過去100年近くにわたって、気候を数値的にある一貫性を持って再現できるようになった。

 これは気象データと気候データの融合をもたらした(「データを巡る戦争 」参照)。気象データは防災のような日常生活だけでなく、天候デリバティブのように経済とも密接に関連するようになった。また、地球温暖化問題の顕在化によって、気候データの方も単なる地域特性の情報ではなくなった。地球温暖化に関する将来への予測と対応(緩和策)への利用、地域毎の温暖化対策(適応策)への利用というように、生活と密接に関わるようになった。気候データは、IPCCへの貢献や異常気象の分析などに幅広く使われている。これは、気象観測ネットワークだけでなく、そこから得られる気象データや気候データも含めて、それらがインフラストラクチャになってきていることを示している。

最初に述べたように、インフラストラクチャは結合性を持っており、さまざまなものと結合することによって機能や利便性が一層向上する。気象観測ネットワークとそれから得られる気象データや気候データは、防災や経済などのさまざまな活動と結合することによって、インフラストラクチャとしてその重要性や必要性が増大しているといえる。