2025/05/26

インフラストラクチャとしての時刻

(このブログは「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の公式解説ブログの一部です)

今では時間(時刻)は、それを指し示す時計とともに常に身の回りにある当たり前のものとなっているが、エドワーズは時間(時刻)をインフラストラクチャの一つと説いている。

時間という概念がいつ頃から人間に備わったのかはもちろんわからないが、狩猟採集生活においてはそれほど重要なものではなかったかもしれない。ただ漠然と太陽の位置でその日のおよその時刻を知り、暑さ寒さで季節を感じていれば、それほど生活に不自由はなかっただろう。

ところが農耕生活が始まると、季節の把握は重要な事項となった。それは種まきから収穫まで数か月の時間差があるためである。体感だけ種まきを行うと、その時期が早すぎたか遅すぎたかは数か月後の収穫前にならないとわからない。そして、その時点でわかっても既に手遅れな場合があった。これは場合によっては飢えに直結したかもしれない。種まきの時期の把握は極めて重要だった。

このために、暦作りや冬至・夏至の把握が行われた。そしてそれは、為政者にとっても民の信頼を得て民を統治するための重要な手段となった。これはエジプト文明やマヤ文明の記録を見ればわかるし、他のいろんな遺跡でも季節の把握のために日の出の位置などが精密に測られていたことでもわかる。

マヤ文明の天文台
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chichen_Itza_Observatory_2_1.jpg

1日を分割する時刻の方は、それほどシビアな正確さを求められることはなかった。しかし、古代から日時計や水時計など時刻を測ろうという努力は行われた。そして、正午などの決まった時刻には鐘などで周囲に時刻を知らせることが行われるようになった。

 

住民に時刻を知らせた報時球(グリニッジ天文台のもの)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Royal_observatory_greenwich.jpg

17世紀に振り子時計が発明されると、時刻は個人の所有物となっていった。とはいってもその決定はその場所固有のものだった。というのは、そこの時刻はその場所の太陽の南中時で正午などの時刻が決定されていたからである。最速の移動手段が馬などであった時代には、場所による時刻の違いが、不便さをもたらすことはなかった。むしろ、場所による時刻の違いの問題が顕在化したのは航海だった。海洋上での船が位置する経度を天体の位置から知るには、正確な時刻を必要とする。しかし、18世紀末にクロノメータが発明されるまで、出発時の時刻を海洋上で正確に維持して、経度(時刻)を知ることは困難だった。

1800 年頃までは時刻の標準は太陽時だった。正午は文字通り1 日の真ん中(南中)を意味しており、時間の単位はその日の日出と日没の時刻によって変わった。つまり同じ1 時間でも、冬は短くなり夏は長くなった(不定時法)。それは、日本では1872年(明治5年)まで続いた。

比較的正確な振り子時計や海洋でのクロノメータは、その場所の時間の長さを固定したが、その場所(経度)によって決まる時刻の関係性は不正確(不統一)なままだった。多くの場合、時刻はその場所の教会の鐘や公共時計で示され、それはその場所毎に異なった。しかし、旅行者も比較的低速で移動するため、それで不自由はなく、旅行者にとって万国標準時の必要性はなかった。

そういう状況を変えたのは鉄道の登場である。鉄道網の発達により輸送の高速化は乗客の利便性だけではなく、鉄道の運行にとってわずかな時刻の違いが安全性に重大な影響を及ぼした。初期の単線の鉄道システムでは、上りの列車は下りの列車が通過するまで待ち合わせを行っていた。列車の運行が予定時刻通りでない場合、重大な事故がしばしば起こった。当時発達しつつあった単線の鉄道網は、安全性の確保のために正確な統一時刻を必要とした。

そういう状況の中で電信が発明された。これは時刻を含む情報を瞬時に伝えることが出来た。電信ネットワークの拡大による時報のほぼ瞬時の送信によって、鉄道網における車掌と駅長の時計の同期が可能になった。鉄道会社にとっての線路の土地の所有権は、ちょうど電信線ネットワーク敷設のための土地利用権にもなった。鉄道会社は早速線路に沿って電線を張り、電報網を構築した。鉄道網の拡大とともに電信は時刻の標準化を触発した。

もう一つ離れた場所の時刻の一致が重要な分野があった。それが気象学である。気象学者たちは、総観天気図があれば、気象予報を行えることにすぐに気づいた。総観天気図とは、各観測所の気圧や気温などのある時刻の気象状況を一斉に切り取ったように図示化したものである。その天気図の気圧分布や風向と風速を見れば、悪天候をもたらす低気圧や晴天をもたらす高気圧がどの方向にどのくらいの速さで進んでいるかを示した。その結果、それは次にどこで何が起こるかについての合理的な推測のための根拠を提供できた。

しかし各地の時刻は地方時が使われており、そのままではたとえ各地で定時観測を行っても、地方時の違いが、総観天気図の正確性に影響を与えた。それを避けるには、場所に依らない標準時刻を用いた一斉の観測結果の収集を必要とした。これを最初に認識したのは、当時米国で気象予報を担っていた陸軍信号局の気象学者クリーブランド・アッベだった。彼は1870 年に、シンシナティ天文台長から陸軍信号局の新しい気象部門の最初の責任者となった。アッベはすぐに新しいシステムを導入し、信号局の米国中の気象観測者に時報を電報で送るようにして、統一された標準時刻による気象観測がアメリカ大陸で確立された。気象学の場合は独自に電報網を構築する力はなかったために、既存の電報網を利用するしかなかった。

クリーブランド・アッベ(1838 – 1916)

一斉観測を行った結果を図化した総観天気図を用いる気象予報は、国の軍事的および商業的利益にもつながった。そのため、電信を用いた気象観測網の設立は、多くの国家気象局において早急に進められた。電信と気象観測網を組み合わせた組織的な警報体制には、大規模な組織と豊富な資金が必要であったため、それを設立できたのは、政府と軍隊だけだった。

しかしアッベの活動は、米国内の観測時刻の統一だけに留まらなかった。最終的に、彼は鉄道会社と電信会社と米国科学振興協会を通じて、地域毎の時刻の標準化を戦略的に進めた。気象学者であるアッベは、米国だけでなく国際的にも時刻の標準化を推進した。1884年の国際子午線会議で世界標準時の採用、つまりグリニッジ天文台の緯度を0°として、緯度で15°ごとに1時間の時差の定める制度(世界標準時)を強力に進めた一人となった(気象学と気象予報の発達史「気象観測と時刻体系」参照)。これによって、世界中の時刻が系統的に結びつくことになった。時刻はそれ自体がインフラストラクチャとしての基本的でかつグローバルな情報となった。それに伴って気象学に対してもグローバル化への道を開いた。

一方で日本では、1884年の国際子午線会議が開かれた際に、既に中央気象台が京都時を用いて日本全国で気象観測を行っていたのが、明石を通る東経135°が日本標準時になった一因という説もある(気象学と気象予報の発達史「日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(3)暴風警報の準備(2)」参照)。いずれにしても、現代の気象学は、統一的な標準時刻とそれを用いて観測した総観天気図、という強力な組み合わせを含んだインフラストラクチャが生まれたことによって、日々動く大気イメージを作成することにより広域の気象予報が可能になった。

しかしエドワーズが言うように、どんなインフラストラクチャでも、古い標準を新しい標準に置き換えるには「それが組み込まれた基盤が持つ慣性」(摩擦)を克服する必要がある。皮肉なことに、気象学者であるアッベの努力にもかかわらず、国際気象機関(IMO)が標準時刻を受け入れるのは非常に遅かった。アッベの時刻改革運動が始まるちょうど1 年前の1873 年に開かれた最初の国際気象会議は、観測を各観測所の平均太陽時(地方時)に従った観測時間に固定することに合意していた。そのため気象の定時観測では地方時が標準となり、それが20 世紀まで気象学の国際標準であり続けた(地方時を用いた定時観測は、太陽の高度角における日々の気象・気候に焦点を当てることが出来るという長所もある)。国際気象機関が観測に用いるべき標準的な時刻として世界標準時を公式に指定したのは、1946 年だった。

グローバルな標準時は、一斉性のための時刻で連続空間をつないだ。それは広大な地域に住む人々にとって共同体という概念の一部となった。その採用には、瞬時の通信手段と正確な時計というインフラストラクチャが必要だった。また標準時は、時刻の基本的な意味とそれまでの生活経験に関する概念を大きく変えた。それまで自分がいる地方時で暮らしていた場所が、世界標準時では経度によって「年間通して同じ時刻になる地域」という概念上の変化を生み出した。

時刻はそれ自体が基本的でかつグローバルな情報となるとともに、「世界気象監視プログラム」などのはるか先のグローバル化への道を歩み出した気象学と、密接に関連することとなった。


2025/03/04

インフラストラクチャから見た気象観測ネットワーク

(このブログは「気候変動社会の技術史」(日本評論社)の公式解説ブログの一部です)

 この本のキーワードの一つはインフラストラクチャである。他の所と重複する部分があるかもしれないが、インフラストラクチャという切り口でこの本を見てみる。

インフラストラクチャとは、一般的に人間活動を「下支えするもの」や「基盤」を意味しており、例えば生活では電気、ガス、水道、インターネット、あるいは物流なども該当する。本の中でエドワーズが述べているように、インフラストラクチャとは、「ある共同体内で高い信頼性を持ち、標準化されて広く利用できる基礎的なシステムとサービスである」。

インフラストラクチャは、私たちにとって普通は目立たない背景として備わっている。しかし、私たちの文明は基本的にそれらに依存しており、そのことに気づくのは災害などでインフラストラクチャが失われたときである。例えば地震や台風などで電気や水道が止まると、真っ先に住民からその不便さがニュースで報道される。

また、インフラストラクチャの特徴は、それが結合性を持ったものであり、それによってインフラストラクチャの機能や利便性が一層向上する。例えば電力網では、風力発電など多様な発電からの電力を組み込んだり、電力が足りない電力網へ余力がある電力網から電力の供給が行われたりする。コンテナでは、トラック、鉄道、船舶などの輸送手段を超えてコンテナを用いた流通が行われている。このように、インフラストラクチャは、時間と空間と社会組織をマクロ、メソ、ミクロのスケールで結合することによって、現代の社会世界における安定した基盤を提供している。

今ではインフラストラクチャという言葉と概念は、広くどこでも使われている。しかし、気象観測網が各国あるいは全球に広がっていった19世紀には、そういう概念はなかった。各国は気象という広域の現象を観測する必要に迫られて、結果として気象観測ネットワークという一種のインフラストラクチャを構成していった。それは、最初は国単位であったが、自国内の観測だけでは十分ではない気象予報の必要性に迫られて、気象観測ネットワークは各国をつないだものとなり、数値予報の必要性から、全球規模に広がった。気象観測ネットワークは、結果として「インフラストラクチャのグローバル化」を行い、気象の「グローバルデータの収集」を行った。

インフラストラクチャである気象観測ネットワークは、各国の観測ネットワークを結合することで、その機能や利便性が一層向上する。しかし、各国が独自に発展させたネットワークを結合させることは、容易ではなかった。そこには「計算摩擦」や「データ摩擦」が存在した。それは技術的な問題だけではなく、人間(手計算だけでなく、主義主張の違いや見栄や自尊心が関与する場合がある)という厄介なものも介在した。

気象観測ネットワークの全球化、つまりそのグローバルなインフラストラクチャ化は、WMO(世界気象機関)という政府間機関の調整組織の存在と世界気象監視(World Weather Watch)プログラムという共通目標によって成し遂げられた。それは「WMOによる世界気象監視(WWW)プログラムの構築」で述べたとおりである。

しかし、気象観測ネットワークというインフラの役割は、グローバルデータの収集だけに終わらなかった。世界気象監視プログラムとそれを研究面から支援した「全球大気研究プログラム(GARP)」からデータ同化(データのグローバル化)という手法が生まれた(「再解析データ」 参照)。データ同化は当初は気象予報のための初期値作成が目的であったが、この初期値作成時に後日のデータを加えて手直しすることにより、「再解析データ」を作成できるようになった。これは一定程度の気象観測データがある過去の期間について、地球上のあらゆる格子点での気象を再現することができることを意味した。つまり、過去100年近くにわたって、気候を数値的にある一貫性を持って再現できるようになった。

 これは気象データと気候データの融合をもたらした(「データを巡る戦争 」参照)。気象データは防災のような日常生活だけでなく、天候デリバティブのように経済とも密接に関連するようになった。また、地球温暖化問題の顕在化によって、気候データの方も単なる地域特性の情報ではなくなった。地球温暖化に関する将来への予測と対応(緩和策)への利用、地域毎の温暖化対策(適応策)への利用というように、生活と密接に関わるようになった。気候データは、IPCCへの貢献や異常気象の分析などに幅広く使われている。これは、気象観測ネットワークだけでなく、そこから得られる気象データや気候データも含めて、それらがインフラストラクチャになってきていることを示している。

最初に述べたように、インフラストラクチャは結合性を持っており、さまざまなものと結合することによって機能や利便性が一層向上する。気象観測ネットワークとそれから得られる気象データや気候データは、防災や経済などのさまざまな活動と結合することによって、インフラストラクチャとしてその重要性や必要性が増大しているといえる。