2024/06/19

インフラストラクチャとしての気候知識(4)

 インフラストラクチャの遡及

このブログの 「データのグローバル化」のところで述べたように、現在は過去の気象データを同化モデルで処理することにより、過去の気象を全球3次元格子のデータイメージとしてほぼ再現することが可能となっている。しかし記録に残されている過去の気象データが、データイメージ用の処理データとしてそのまま無条件で使えるとは限らない。再解析に用いるデータは、一貫した品質で気象を正確に反映したものでなければならない。ところが、実際の観測データにはそうでないものが含まれている場合がある。

実際の気象でないもの、一貫していない品質のものが含まれる原因には、例えば測定器の更新や観測基準の変更、観測手順の変更などによって起こる偏差、観測所の観測環境の経時的あるいは移転による変化、平均手法の変更による変化、値の誤記、通信時の文字化け、などがある。

気象予報の場合は、単一の観測点のそういった誤差は予報にほとんど影響しないし、目で見て影響が大きそうな場合には、予報者が単に使わなければ良かった。しかし、そのようなデータを気候データとして使うと、実際とは異なる気候状況を示すことになり、結果に大きな影響を与える。

データのグローバル化を行う前には、過去データについて、それらによる変化の有無やデータの振る舞いがおかしくないかどうかの確認を行う必要がある。これが「インフラストラクチャの遡及」である。ここでのインフラストラクチャとは、全球の気象データを生み出す気象観測所や船、航空機、衛星などの移動体プラットフォームからなる気象観測ネットワーク全体とそこでの日々の観測作業を指している

その確認は観測データだけ見てもわからないことが多い。観測手順書や観測所の履歴などの観測に関するメタデータ(観測手法や状況の記録)と、収集された観測データや観測原簿を突き合わせた確認が必要となる。

 インフラストラクチャの遡及の概念図 (観測データの場合)

メタデータは、観測データと一緒にきちんと整理・保存されているとは限らない。しかも、過去の観測手順や手法を記したマニュアルが廃棄されていたり、何千という観測所の現地にしか観測状況に関する記録がなかったりする場合もある。この過去の観測状況に関するメタデータの有無やありかを調べる作業を、「メタデータの発掘」と呼んでいる。そして、その発掘したメタデータの前後関係から、データの精度を復元するという作業の困難さを、著者のエドワーズは「メタデータ摩擦」とも呼んでいる。

このようにしてわかったメタデータを用いて、その観測所での観測の歴史を復元し、各観測所の記録を照合する。この「インフラストラクチャの遡及」によって、メタデータを発掘し、データを確認し、データに何らかの偏差や誤りを発見した場合には、データ解析モデルを作成して、対象となる期間について数学的補正を行う。あるいは、異常なデータを誤りとして除外する作業も含まれる。

 このインフラストラクチャを遡及させて初めて、これまで収集された気象データは、気候用途に使えるものとなりグローバルなデータイメージを作ることが出来るようになる。

知識生産プロセスとしてのインフラストラクチャの遡及

この考えを拡張すると、「インフラストラクチャの遡及」とは、新しいメタデータに応じて インフラストラクチャに関する歴史的証拠や過去に行った観測・解析作業を再検討して、それらを適切に修正することによって、より正しい情報を得ることである。著者のエドワーズは、知識生産プロセスはインフラストラクチャの遡及を通じて機能する」と述べている。

新たなメタデータが出てきた場合や、より適切な修正方法に変更するたびに、この遡及を繰り返す。これはそれによって得られた知識がその都度結果が変わる可能性を示しており、継続的な知識生産プロセスでは、単一の普遍的なデータイメージや統一的に合意された単一の結果を得ることはできない。

インフラストラクチャの遡及は全ての気象データを扱うため、メタデータの発掘とこれによる検討・確認は、気象のあらゆる過去データに当てはまる。これは地道で膨大な作業である。しかし、この作業がグローバルな気候知識を支えている。例えば、この本に示されている個々の観測地点での雨量計の変更による過去のバイアスの例は、このようにして調べられたものである。

上記のように、過去のメタデータが新たな発掘やモデルの更新によって、このインフラストラクチャの遡及作業も終わりのないものとなっている。歴史分野では、新しい資料の発見に伴って過去の歴史が書き換わることがあるように、今後も新しいメタデータの発見によって、過去の気候が変わることがあり得る。

市民科学(シチズン・サイエンス)

気象学・気候科学では、長年続いているデータのグローバル主義(「情報のグローバル化」参照)という文化によって、観測データや解析データが共有、公開されていることが多い。

気象学におけるデータのグローバル主義は、インターネットの発達により、この分野を誰もが参加できるオープンな市民科学(シチズン・サイエンス)にしている。現在は一般市民を含む誰でも、インターネットを通じて公開されている過去データを用いて、気象観測の誤差の調査や気候データの「監査」などを行える。このブログの「情報のグローバル化 」で述べた、過去データやその解析手法を問うたIPCCでの「ホッケースティック論争」は有名である。本書は、この論争を詳しく解説しているだけでなく、結果の科学的な透明性の確認のため、データの処理に用いた解析手法やモデルのプログラム公開を求めた例も解説されている。

著者によると、この新たな市民科学は、気候変動の科学と政治に新しい段階を告げるものであり、長期的に大きな影響を与えることは確実である。本書では、そういう活動を行っているグループの例として、クライメイト・オーディット(Climate Audit)、SurfaceStations.org、クリア・クライメイド・コード(Clear Climate Codeを取り上げている。

これらの市民科学のほとんどは、科学的プロセスに参加しようとする非専門家による比較的責任ある取り組みである。これは、気候に関する知識の透明性を高めるように見え、表面上は「インフラストラクチャの遡及」の別なやり方と言えるかもしれない。これらはたしかに知識生産プロセスの関係者を拡大することに貢献し、合意を広げる。中にはメタデータや解析モデルについての新しい知見を提供し、その遡及によって科学的インフラストラクチャの改善に貢献したものもあり、本書ではその例も挙げられている。

しかし、気候変動に関するブログや市民科学プロジェクトの中には、誤った情報に基づく善意の意見から、暴言や宗教的な主張や意図的な偽情報などまで、ひどい意見を示しているものもある。これらが混乱や疑念、誤った情報、受け売りの考えを助長している場合がある。著者のエドワーズは、 透明性の向上は知識生産の質を高めるかもしれないが、疑惑や混乱、摩擦を増大させることで安定した気候変動に関する知識の生産を遅らせ、その信頼性を損なう可能性があるとも述べている。その将来はまだ予断を許さない。