2024/04/25

国際政治とグローバルな気象観測網

現在、気象観測は世界中で行われ、その結果はほぼ即時的に知ることが出来る。正午のニュースで午前中の最高気温や最低気温が報じられることもある。また大雨が降るとどこでどの程度の雨量があったかがすぐにわかる。世界各地で起こった異常気象も報じられることがある。もちろん、観測結果は天気予報(数値予報)にも用いられており、日常生活や防災を支えるインフラストラクチャの一部となっている。そして、現在の気候変動問題のリアリティも、気象観測網を用いた情報が支えている。

これは当たり前のように見えるかもしれないが、実は容易なことではない。各地に気象測定器を置いただけでは、観測網にならない。それらは統一的な測定基準で運用され、一斉に観測され、何らかの通信手段で結ばれて、結果が一元的に管理されなければならない。また維持管理のための定期的な保守や測定器の故障の際の修理も必要となる。気象台の職員は、気象台内で予報や観測を行っているだけでなく、アメダスなどの観測所を定期的に巡回して、測定器だけでなくその観測環境も含めた点検も重要な仕事になっている(ちなみに、地震計の維持管理も行っている)。

各国を従えている気象観測網

しかし、気象観測網がすごいのはここから先である。気象独自の問題として、グローバルに統一された観測が必要という問題があった。そのため、気象観測所が各国の各所に展開され、グローバルな観測網を構築している。この世界中を結んだ気象観測網は、初めてのグローバルなインフラストラクチャの一つとなった。

この共通の統一的な測定基準による一斉観測は、今では世界中のほとんどの国々で行われている。世界中が統一された規範に従った同一の作業を一斉に(つまり決められた世界標準時に)行っている。そして、世界中の観測結果は各国の気象機関で瞬時に共有されている。それは、アメリカやヨーロッパだけでなく、ロシアでも、ウクライナでも、北朝鮮でも、中国でも、アフリカの諸国でも同じく行われている。

20245月 地上気温 月統計値の例(気象庁の世界の天候データツールより)。気温に応じた色の付いた点は、気象データを観測して報告している地点。戦争を行っているウクライナやロシアからも、さまざまな国連制裁を受けている北朝鮮からも観測結果は、ほぼリアルタイムで報告されている。ただし、熱帯雨林や砂漠地帯には空白域がある。

現代社会における国家間のさまざまな軋轢やいざこざを見れば、これは驚くべき事である。著者のエドワーズのよれば、最高主権をもっているとされている近代国家をも、その規範に従えているということになる。 こんなことが出来ている分野は他にないだろう。

これは一夜にして出来上がった仕組みではない。100年以上かけて少しずつ関係者が努力を積み重ねていった結果である。なぜこうことが可能になっているのか、簡単にその経緯に触れる。 

第二次世界大戦までの気象観測網の歴史

気象はただ1か所で観測しても、その意義は薄い。他の地点の観測値と比較することで、他の観測地点との違いやこの観測地点の特徴がわかる。いくつかの測定器の開発や実験的なものを除いて、組織的な気象観測網の構築は、17世紀から始まった。それはそのための測定器の開発も並行して行ったものだった。当時、イタリアの実験アカデミー、イギリスの王立協会が各地で気象観測を行った、そして、パリだけではあったがフランスの王立科学アカデミーなども気象観測を行った[1]。

しかし、当時は観測手法や結果の比較に関する科学的な概念は確立されておらず、測器較正や観測環境を含む観測手法が異なる、あるいはわからないため、その結果を同一の観測網の中といえども正確に比較することは出来なかった(気候を知るという意味では、当時はそれで十分だった)。また、気象観測は長期間の継続が重要であるが、1日に何度も観測することを毎日継続するための労力は大変なものだった。そのため、王立協会を除いて観測は長くは続かなかった。

観測手法の統一を初めて唱えたのは、おそらく王立協会のロバート・フックである。彼はフックの法則や精密な描写を行ったミクログラフィアなどでも有名である。彼は1663年に王立協会で行っていた気象観測に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案した[1]。これは観測手法の統一のために画期的なものだったが、いくつかの要因により王立協会内でも徹底しなかったようである。

各国では、やがて自国の農業、経済、健康などに気象(気候)データが重要であることに気づいて、18世紀頃から、いくつかの地域で気象観測を行うようになった。その中で、測定器や観測手法を統一した本格的なものは、ドイツのマンハイムにあったパラティナ気象学会によるのものだった。この気象観測網では測定器やその較正方法、観測方法を統一した。この観測網にヨーロッパ、地中海、アメリカ、ロシアなど37か所の観測所が参加し、気圧、気温、湿度、風向、雨量などを測定した。この測定結果は、後にフンボルトの気候図や、ブランデスによる初めての天気図の作成に用いられた[1]。

気象観測の目的に大きな革新が起こったのは、電信の発明によってである。 それまで月単位で集計して郵便で運ばれていた各地の観測結果は、電信によって中央でリアルタイムに把握できるようになった。これによって嵐の来襲に対して港湾のなどの船に事前に警報が出せる可能性が出てきた。フランス、イギリス、オランダなどでは観測所を電信で結んで、警報体制を構築した[1]。これが近代的な気象観測網の原型となった(米国では別途独自に発達した)。警報と行っても予測理論があるわけではなく、気圧や雨・風、気温の変化などの経験則に基づいた現在のナウキャストに近いものだった。

ところが、各国が自国内で整備した気象観測結果を交換するだけでは、警報を出すのが困難であることがわかってきた。そのため、1873年に第1回国際気象会議が開催され、その議題の一つが気象観測の標準化だった。その調整のための国際気象機関(IMO)が設立されたが、データの共有は進んでも標準化はなかなか進まなかった。これは各国が自国の観測手法を優先させたためであり、IMOは決定に拘束力を持つ政府間組織とはならなかった[1]。

                   国際気象機関の設立

他国の観測データを用いようとすると、観測手法の違いや単位の異なるデータの変換に多大な手間がかかった。また各国の気象関係者も、国の政策的な制約を受けることを避け、自分たちの科学的に独立した立場を優先させた。第二次世界大戦まで、一部の関係者は標準化のための努力を行ったが、その進展はわずかずつでしかなかった。

世界気象監視プログラム(World Weather Watch:WWW)

標準化が進展し始めたのは、第二次世界大戦後に世界気象機関(WMO)が設立された後である。 WMOは、国連の専門機関として政府間組織となった。つまり、決定事項は政府代表が集まって討議し、その結果には拘束力が付与された。

そして、コンピュータの発明と人工衛星の打ち上げによる数値予報と気象改変の可能性によって、1961年に米国のケネディ大統領は、国連総会において、衛星や通信網を用いた気象の観測と予測に関する各国による協力の構想の演説した[1]。これは各国から歓迎され、それを受けて、WMOは世界気象監視(World Weather Watch:WWW)プログラムを開始した。これが、上記の各国による調整された統一された規範に基づいた同一の作業による気象観測の実現となった。

1961年9月25日に国連総会で演説するケネディ大統領

著者のエドワーズは、WMOなどの国連の組織自体が、各国政府の正統性に挑む権限を持っていたためにその主権を制限した、と述べている。世界気象監視プログラムの実現には、この本にあるように技術の発展だけでなく、気象学の伝統と関係者の工夫・熱意と東西冷戦が関係している。

世界気象監視プログラムは、当初は種々の技術的・社会制度的な問題にぶつかり、それを一つ一つ解決して行った。世界気象監視プログラムは、まさに初のグローバルな通信インフラストラクチャの一つだった。それはインターネットが登場するはるか前である。エドワーズは世界気象監視プログラムを、現在のWorld Wide Webと対比させて、最初のWWWと呼んでいる。

参照文献

[1]堤 之智、2018:気象学と気象予報の発達史(丸善出版)