2024/07/01

電子コンピュータと気象学

 気象学者と電子コンピュータ

コンピュータというと今では電子式が当たり前であるが、昔は計算機としては機械式計算機 や計算尺なども一般的に含まれていた。ここでは、それらと区別するために、電子コンピュータという言葉を使用する。

数値予報モデルや大循環モデルなどの気象学におけるモデルの発達は、電子コンピュータの発達と密接に関連している。電子コンピュータが登場するまで、気象学はそのほとんどが理論による思考かデータ解析であり、必要な道具は、ペンと紙か機械式計算機で作業する研究だった。もちろん1950年頃の気象学者たちは、電子回路やそれへの命令を行うソフトウェアに関する知識をほとんど持っていなかった。

ちょうどその頃から、電子コンピュータを用いた気象予報モデルの研究が盛んになった。ところが、電子コンピュータの技術者は少なく、しかも彼らは気象学のことは全くわからなかった。そのため、電子計算機を使った数値予報や大循環モデルなどの新たな気象学を目指す研究者たちは、気象学だけでなく、当時異分野の新技術だった電子コンピュータの動作原理とそれを制御するソフトウェアにも詳しくなければならなかった。

その橋渡しをしたのは米国で活躍した科学者フォン・ノイマンである。数値予報を含めて彼の活躍した分野の紹介は「フォン・ノイマンについて(1)~(12)」に譲るが、彼の専門の一つは流体力学であり、彼は開発中の電子コンピュータの利用目的の一つとして、数値予報に目を付けた。

気象予報(数値予報)は流体力学の計算の応用にまさに好適だった。そして電子コンピュータを用いた数値予報の開発グループを組織し、資金を調達した。ただし多忙なため、彼がそれに直接関わることは少なかった。そして、電子コンピュータ「エニアック」を用いた最初の数値予報実験の際には、自らそのためにエニアックを改良し、そのためのプログラム作成も支援した。

紆余曲折はあったが、計算機による予報実験の成功を受けて、数値予報モデルの本格的な開発が始まった。数値予報モデル(方程式群)をプログラムにして、それを電子コンピュータ上で動かすという科学は、それまでの伝統的な紙とペンを使った科学的手法とは全く異なっていた、それは気象学の研究者たちに新しい世代が出てきたからこそ可能なことだった。

 


電子コンピュータと気象学との関係

しかも当初の電子コンピュータは、現在と異なって、中央演算装置(CPU)やレジスタ(格納装置)に、難解な低水準のプログラム言語を使って、どのレジスタの番地の値を使った計算結果をどのレジスタの番地に格納するかなどを直接指示しなければならなかった。なお、低水準プログラム言語とは、機械語やアセンブリ言語などのようにハードウェアに近い部分を直接制御するプログラムコードを指しており、高水準プログラム言語とは、人間がより直感的に理解しやすいプログラム言語(FORTRANPythonなど)を指している。

著者のエドワーズによると、気象のモデルの開発に最も成功した機関は、予報理論の研究者とプログラム作成の魔術師(wizard)を組み合わせたところだった。そしてその魔術師の多くは、自分のプログラム作成の才能を発見した研究者自身だった。そのため、モデルを用いた気象学者たちは、ある意味で今日でいう先端のIT技術者でもあった。

プログラミングと気象学

それでも気象や気候のモデル のプログラムコードを作成するには、予報理論のモデルを構成する複雑な数学だけでなく、計算機独特の数値手法をプログラム化するための優れた技法も必要だった。したがってモデル開発の研究者チームは、数値解析や非線形計算の安定性などを専門とする数学者や技術者にその手法を相談することが多くなり、そのための専門のプログラマーを雇うようになった。

そのうちに、いくつかの研究者チームは主なプログラマーを論文の共著者として記載するようになり、彼らの技術的貢献に対する科学的重要性を認めた。これはそれまでの科学論文としては極めて異例なものだったが、それだけプログラム作成技術と科学的成果とが密接に関係していたということでもあった。

気象学による電子コンピュータへの影響

逆に、大量の計算を必要とする数値予報モデルや大循環モデルは、電子コンピュータの発達を促した面もあった。当時、気象学以上の計算を必要とする分野は、核兵器の設計しかなかった。気候および気象モデルのセンターは、常に最先端のスーパーコンピュータ設備を維持して、スーパーコンピュータ産業の発展に大きな影響を与えた。たとえば、米国の国立大気研究センター(NCAR)が1977 年にクレイ・リサーチ社から購入した最初の量産スーパーコンピュータCray1-A は製造番号3だった。ちなみに製造番号1 のテストモデルは、前年にロスアラモスの核兵器研究所に納入されたものだった。

現代からは想像も出来ないが、1970年代の終わりまで、コンピュータメーカーが納入するのはハードウェアだけで、オペレーティングシステム(OS)、コンパイラ、そのほかの基本的なソフトウェアは、コンピュータが納入された研究所が自前で作成していた。この慣習を変えたのはNCARだった。コンピュータメーカーのクレイ・リサーチ社は、NCARからの要望によって、自社コンピュータ用のシステムソフトウェアを提供するようになった。これで研究者たちは、モデルなどのアプリケーションの開発に専念できるようになった。

今ではOSなどの基本ソフトウェアは、コンピュータとパッケージになっていることが当たり前になっている(オープンソースのものもある)。しかし気象学では、特に気候モデル作成の分野では、今日でもユーティリティなどのソフトウェアを、研究者が開発して共有するという伝統が一部で残っている。

気候モデルと貿易摩擦

そして、「気候学の歴史(9): 気候モデルとコンピュータ」にあるように、気候モデル用のスーパーコンピュータは、日米貿易摩擦を引き起こした。

1994 年から1996 年にかけて、NCAR は老朽化したクレイ社のスーパーコンピュータを新しいものに更新する入札を行った。そして、このスーパーコンピュータの落札者が、歴史上初めて米国以外の企業となった。NEC SX-4 は、NCAR がこれまでに評価したコンピュータの中で最高のパフォーマンスを記録していた。

 NEC スーパーコンピュータ SX-4(NEC提供)

クレイ社は、入札の際にNEC がマシンの価格を「ダンピング(違法値引き)」したと米国商務省に異議を唱えた。商務省はクレイ社を支持する判断を下し、NEC 454%の関税を課した。これは訴訟にまで発展した。この訴訟は、最終的に連邦最高裁判所に持ち込まれたが、同裁判所は1999 年に商務省の決定を支持した。NCAR は「私たちは世界で最も強力なベクトルコンピュータシステムの入手を拒否されている」と述べてこの決定に不満を唱えたが、どうしようもなかった。