前回、気象学などのモデルが、電子コンピュータといかに密接な関係があったかを述べた。この本では、以下で紹介する3名の日本出身で米国で活躍した大循環モデルの作成者(モデラー)が登場する。
1960年前後の当時、大規模な大循環モデル(後に気候モデルに発展)を作成して、気候科学に貢献できたのは、実質的に米国の彼らが属していた3つの機関に限られていた。それらそれぞれの機関での大循環モデルの開発を、日本人が主導したというのは興味深い。彼らは協力しながらもそれぞれの機関で独自に活躍した。
真鍋淑郎
2021年にノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎は、米国に渡る前に、東京大学で計算機を用いた降雨予測を行っていた。この成果に地球物理学流体力学研究所(GFDL)のスマゴリンスキー博士が目を止めて、1958年に米国のGFDLへ招聘した。
真鍋淑郎博士
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crafoord_Prize_EM1B0732_(42329290061).jpg
「電子コンピュータと気象学」で述べたように、当時のモデルを用いた気象学者たちは、ある意味で今日でいう先端のIT技術者でもあった。真鍋淑郎は、当初は機械語を使ってプログラムするために壁にメモリマップを貼って、どのレジスタに何を格納したのかなどをわかるようにして苦労したと述べている。その後機械語はアセンブリ言語に置き換わったが、それでも今日から見るとプログラムはアルファベットと数字による暗号のような記述である。その後、高級言語FORTRANの出現とGFDLでのプログラマーの雇用によって、真鍋淑郎はプログラミングからは解放されたようである。
その後、彼は大循環モデルで気候をシミュレーションするようになったが、その際に二酸化炭素が気候に大きな影響を与えることに気づいた。それまでの温室効果の議論は、大気全体の放射効果だけを考慮したものだった。しかし、実際の温室効果ガスは各高度の大気層毎に放射と吸収を繰り返す。これを考慮しなければ、正確な温室効果を計算することが出来ない。そのため、これを考慮した放射伝達モデルを初めて作成して大循環モデルに組み込んだ。これによって温室効果ガスによる影響である「放射強制力」がより適切に評価できるようになった。大循環モデルに放射伝達モデルを組み込んだことが、後のノーベル賞受賞のきっかけの一つとなった。
真鍋らのグループは大循環モデル を使用して、初めて二酸化炭素が産業革命時より倍増した場合の気温上昇を計算した。その後、この二酸化炭素倍増実験は、「気候感度」として、地球温暖化予測における世界標準の一つとなっていった。ただし、これは一つの指標であって、これが将来の予測気温というわけではない。
また、海洋は気候に重大な影響を与える。そのため大気のシミュレーションの際には、海洋の影響を加味する必要があった。彼は1969年に海洋学者ブライアンと協力して、初めて大気モデルと海洋モデルを結合した「大気海洋結合モデル」を作った。その際には、比熱や挙動が全く異なるこれらを一つのモデルに組み込むために多大な苦労があった。この結合の成功は、後に大気海洋結合モデルが発展していくきっかけとなった。
GFDLでの大循環モデルのリーダーはスマゴリンスキーだったが、彼は全球大気研究プログラム(GARP)の運営や管理に時間が取られて余裕が全くなかった。そのため、GFDLでの大循環モデル開発の実質的なリーダーは真鍋だった。彼の研究スタイルは常に仲間との緊密な協働という形をとった。他の日本人研究者がいる研究室でも、このような順応性や勤勉性、協調性といった姿勢は見られたが、このような研究スタイルは、個人主義、成果主義の米国では特殊だったようである。アメリカの気象学者ジョン・ルイスは、自分が所属したグループの中で、日本人研究者がいたグループでは仲裁が必要な深刻な対立は起こらなかったと述べている[1]。
荒川昭夫
二人目の荒川昭夫は、1950年に東京大学を卒業後、気象庁に入って観測船に乗っていた。その後気象庁の気象研究所で米国の文献に基づいて数値予報の研究を行ったが、当時使えたのは手回しの計算機だった。気象研究所では、彼は当時開発されつつあった電子コンピュータを用いるために、機械語から始めて後にFORTRAN言語を学んだが、当時日本にはFORTRANで動くマシンがなかった。彼は実機なしに作成したFORTRANプログラムを、米国に送ってそこのIBM機で走らせてもらったと述べている。驚くべきことにこれはいきなりノーエラーで動作した。しかし、米国での大循環を模した回転水層実験などの結果を知り、彼は大気大循環に関心を向けた。
荒川昭夫(コロラド州立大学 David A. Randall 教授提供)カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のイェール・ミンツ博士が日本人気象学者を探していた際に、東京大学の気象学教室の正野重方教授が荒川昭夫を推薦したようである。彼は1961年に一時的にUCLAに渡った。2 層の全球プリミティブモデルによる大循環モデルを完成させた後、荒川は日本へ戻った。しかし、荒川の素晴らしい能力に気づいたミンツは、彼を説得した結果、荒川は1965年にUCLAへ戻った。
当時、大循環モデルは途中で計算不安定を引き起こすため、約1か月以上先の計算を行うことができなかった。荒川昭夫は、1966年にモデル格子に数学的な工夫を凝らすことによって、世界で初めて大循環モデルの長期計算を可能にした。彼は米国で計算機の魔術師と呼ばれた。彼が編み出したモデル手法は「荒川スキーム」と呼ばれて、彼の論文は気象学だけでなく、流体力学や宇宙物理学の論文でも引用されている。また荒川は、1974年に同僚のシューバートと二人で積雲のパラメタリゼーションに画期的な手法を考案し、これも代表的な手法として世界中で使われている。
真鍋淑郎と荒川昭夫は同じ東京大学出身である。UCLAの荒川はGFDLの真鍋より4歳年上であるが、荒川は大学院へは行っていないので、学生時代に接触はなかったと思われる。しかし、米国に渡ってから両者は同じ気候モデル分野ということで頻繁に交流があり、研究仲間でありかつライバルとなった。公開されているエドワーズとのインタビューで、真鍋は荒川のことを「物理学的洞察力と数学のバランスが良い稀有な人物」と評している。荒川は真鍋の研究を互いに補完的なものだったと評している。もちろん互いがそれぞれの成果を取り込んで、さらに気候モデルの分野は発展した。
笠原彰
3人目の気候モデラーである笠原彰は、1954年に東大地球物理学教室からテキサスA&M大学などを経て、1963年にアメリカの気象学者フィリップ・トンプソンの招聘で国立大気研究センター(NCAR)へ移った。NCARは大循環モデル開発では後発組であり、むしろ大学連合(UCAR)が母体であったNCARの特色を活かして、彼は同僚らと一緒に開発した大循環モデルプログラムを公開化したコミュニティモデルの開発を進めた。
笠原彰。笠原彰とウォーレン・ワシントンは、1960年代から70年代にかけて開発されたNCAR大循環モデルの実行に、NDC6600スーパーコンピュータを利用していた。GCMの実行結果は、写真のIBMの9トラック磁気テープに保存されていた。(UCAR提供, ©2024 UCAR)
笠原彰とウォーレン・ワシントン。2016年にNCARのメサラボで。(UCAR提供, ©2024 UCAR)
モデルプログラムが公開されても、それを他のコンピュータに移植して走らせる場合、同じプログラムコードで走るとは限らず、そのコンピュータに合わせたコードの修正が必要になることが多い。また、研究者自身がそのモデルコードをベースに、さまざまな修正や改良を行うこともある。そのため、それを行いやすいように、笠原らは開発したコミュニティモデルの徹底した文書化とモジュール化を進めた。このモデルは、いわゆるプログラムのオープンソース化の先駆けとなった。そのため、NCARのモデルは世界中の多くのモデル研究者たちに使われた。
私は1992年に大気化学のコロキウムのためNCARのメサラボに2週間ほど滞在した。 その時、屋外のカフェテリアに一人の日本人が座っているのを時々目撃していた。おそらく彼が笠原博士だったのだろう(彼と私以外に日本人はいなかった)。当時、私には気候モデルに関する知識がなく、彼と話をしなかったのが、今となっては残念に思っている。
米国での大循環モデルの開発(成果の一部は直ちに他のモデルでも採用された)
なお気象学分野では、この3名以外にも、多くの日本人研究者たちが、主に米国と日本でめざましい活躍をした。米国で活躍した彼らは頭脳流出組と呼ばれることもあった。この時代活躍した日本人研究者たちのうち、東京大学の正野重方教授の気象学教室出身者たちを、この3名を含めて正野スクール(正野学派)と呼ぶことがある。